2014年12月30日火曜日

落ち葉拾い

『人と人は、わかりあえるし、つながれる。でも、「こうすればわかりあえる」「こうなればつながれる」というような、確たる方法や理論は存在しません/名越康文』

 
これは非常に重要なことをいっているように思います。制度や教育で代替できない、といっているからです。

  暗黙知は形式化できず、何をしたらいいというものはない、ということになります。だからコミュニケーション論というものはすべてうそなのです。


  ただ、こういうとすべてが負けを覚悟の賭けになってしまいます。


  いってもしょうがない、どうせだめだろう、一切期待せずに行動する、結果は偶然まかせになる。
 
  名越氏はこうもいっている『真理の中に感動がなければ、それはまだ真理そのものではない。』

 逆に感動だけで真理が無いものが巷にあふれているように感じますが、真理がその人間におとずれるかどうかも偶然になる。

 
 たぶんその人間にとってだけ訪れる真理はそれだけでは真理ではないでしょう。

  『だが多数は自分の知った真実を吐き出している。劣化。説得力とは自分が知った真実には拠らない。情報の量や論理の精緻さでもない。いわば、自己洞察的な揺らぎに拠る。』

 
 真理とその人間にとっての真実は別である。

『「人はそれぞれ別の世界を生きている」という事実を知った瞬間に感じた、膝から下が軽く痺れてしまうような孤独感を、一瞬ごとに、初めてそれを知ったかのような新鮮さで感じ続ける/名越康文』

  真実はその人間の数だけ存在する。真理はその亀裂に垣間見えるが、それだけでは真理ではない。

    やはり、真理は偶然にまかされ、人間は感動のかけらからそれを拾い集めようとしていつも挫かれる。

2014年12月28日日曜日

もともと神はゆるキャラだった

はじめに、ゆるキャラがあった、、、。 心の動きと経済の動きが非分離であった原初、宗教的儀礼は経済行為であった。 そこにはなぜかシンボルが必要で、人はそれを神と呼んだ。 神というと強すぎるなら、ゆるキャラといってもいい。 神はもともとゆるキャラとして登場したのだ。

2014年12月6日土曜日

リノベーションまちづくり塾@豊島区第一日

来年、東京で初開催という、「リノベーションスクール@豊島区」(豊島区の遊休不動産のオーナーのみなさまへ~計画対象物件を募集します~あなたの物件が収益を生み まちの魅力を高めます)、の告知的な、そもそもリノベーションとは何で、不動産をどう活用したかの事例紹介であります。

関係ない話ですが、担当と思われる方もふくめて参加者に美人が多かったという気がしましたが、京都から来た不動産関係の人や、これから成功事例物件としてとりあげられた小倉に行くつもりだと話していた人などいて、満員の盛況でした。立ち見もいたのかも知れません。NHKも取材に来ていました。

小倉家守PJ、大田区蒲田の梅屋敷、大田区大森の大森ロッジ、鎌倉のTERACE KONA SURF、北九州市小倉北区魚町商店街の三本屋、水道橋の田中衡機ビルなどでした。

 仔細に述べるのはプライベートにかかわるので省きますが、大体共有の広場やスペースを、住民自身だけでなく町の人にもイベントなどで解放して、そして開放的できれいな空間ができることで町の印象だけでなく人々の意識を変えていくこと、そして家屋やそれにまつわる人々の歴史を、物語を大切にしていくこと、人、場所、時間を、キャスト、ステージ、シナリヲととらえて、家屋やテナント自体から意味を読み取り試行錯誤すること自体も物語としてつくりあげていく、というものですが、不動産に親の世代からかかわっている目利きしかわからない集客や広報、改築の方法などがあるのだろうなあと素人の私は思いました。


開かれた住宅、というのは、山本理顕という人が、 個人と国家の〈間〉を設計せよ第5章「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」(岩波 思想)などとおどろおどろしく語っていますが、コンセプトとしてはずっといわれてきたことです。現在空き家はバブル期の首長記念館以上にかつての前衛的なコンセプトを発揮できるのかも知れません。