2014年5月31日土曜日

テルマエ・ロマエ:銭湯維持に8億円


実際にお風呂がなくて困っている人たちを助ける他にも、 ・地域コミュニティとしての役割 ・伝統文化としての継承 などがその予算担保の理由
とありますが、地域コミュニティ、伝統文化といった言葉が形骸化して何を指しているかわからなくなっているからというべきでしょう。

 両方を本当に考えるなら、今のままの施設で本当によいのかを考える必要がある。

 資生堂の福原名誉会長は日本のホスピタリティの例として、見ず知らずのものが裸で入浴する銭湯をあげており、観光客人気としては蛇骨湯などが浅草にあるため繁盛しているようですが、ほとんどは閑散としている。

銭湯に限らず、地域コミュニティ、伝統文化という言葉が使われているところはどこでも危ういのではないでしょうか。

ただ、こうした考えの本丸は寺社でしょう。 これは相当危うい問題を引き起こします。

2014年5月30日金曜日

恋愛とはセフレの言い訳

そして入籍とはセフレ奴隷の誤魔化し

金がない人間は必死

というか、詐欺を生業にしてしまったものがそれを自立と言い張り、詐欺の工夫を延々と続けるというケースがありすぎて資本主義の終わりを感じることが多い。

2014年5月25日日曜日

理論的綜合:吉本、ラカン、フーコー

フーコーもラカンもコミュニケーション言語を問題にしているとはとりあえずいえるのだが、ラカンのシニフィアン理論はそうとはいえない。ただそれは失敗に基づく固着であり、傷であるため、コミュニケーションが前提になっていないわけではない。

吉本の場合はただコミュニケーションの機能的言語に対置して文学的美の領域があるとしただけで、積極的のようで消極的な規定である。

それはただ自由の領域を規定しただけにみえる。

そこにおける幻想性の領域において考えるなら、社会、経済、技術的な枠組みは共同の次元の問題であり、個人とは峻別される。


理論的反人間主義

60年代後半から80年代前半までにかけてのカウンターカルチャー、産業文明批判の流れが、フランス構造主義として結実して花開き、日本では吉本隆明などがそれに対応するかたちで論理展開をしました。


構造主義はアルチュセール、ラカン、フーコーときますが、マルクス主義の立場に固執せざるを得なかったアルチュセールと違って、フーコー、ラカンには独自の論理展開があり、特に著作がほぼ完結しているフーコーの世界はひとつの完結したユニバースをつくっています。


わたしの立場はフーコー、ラカンの論理を吉本隆明と相互補完的に使用し、人間主義=ファシズム、マルクス主義を越えることです。

日本人の身体

身体などというものはない、といいたいところだが、こうしたタイトルがついた本は羊頭狗肉なものが多い。

こうしたテーマを立てるには前提がある。
  1. 文化とはなにか
  2. 伝承とはなにか
  3. 技術的継承の物理的基盤
  4. 言語とはなにか
基本的に現在、これらの要素は技術的・情報的集約化による社会改革においては障害物、あるいは無視してよい、積極的に無視すべきものとされる。

身体は統計的人口、分子生物学的情報としてカウント可能というものに解体する。

もともと身体というものはないので、身体は基盤にならない。医療的措置の介入対象にすぎない。

統一地方選:首長に提言

技術言語と文学言語

スマホの登場とともに技術的に社会問題を解決してしまおう、できるはずだという機運が高まっているように感じる。

あらゆる無駄や障害はバグとしてあつかって乗り越えてしまおうというのだ。

こうした技術を基盤にした幻想というのはいつの時代にでもあったが、今回の共同幻想の形態を考えてみる。

ここでいう幻想というのは、社会学、経済学、心理学、教育、医療、福祉、なんでもいいが、ある行為を正当化し権利を主張するマインドセットだ。

学問と制度は違うが、細かい違いは捨象する。

技術的解決と社会的課題というセットは、社会的正義を以って主張される。ここに世代間闘争や格差の批判が上乗せされたりする。

社会ファシズムの技術的形態とまではいわないが、社会的制度の自己目的によって予め結論の決まった圧力団体となり、自らの組織体の利益を実現させていく。

ここでは自由は基本的にない。情報伝達の媒体として個人はあるだけであり、指令を伝達するだけである。

これは教師が知識を生産せず伝達すること、正確な伝達を旨とすることに似ている。

つまるところは官僚主義である。

言語使用がそれ自体として自由であるという発想はそこにはない。デジタル・デバイスの一環としての発話であり、記述である。

それをもって科学的・合理的とする。


理性による社会的制御は不可能か


「理性による社会的制御」というが、「社会」という概念そのものが「理性」と「制御」を含んでいるのである。

そして、 「コミュニケーションのまともな作動」というが、これは何によって成されるのか。理性(ロゴス)によってではないのか。「暴走、全体主義への加担」から、どうやって逃れるのか。それも理性ではないのか。


ここにはポランニーの暗黙知に対する曲解と、ポランニーが厳しく批判するウィトゲンシュタインとの無理やりの結合がある。

これは失敗の研究はできるが成功の研究はできず、さしあたって失敗する行為を「しない」ことがもとめられる。

するとそういう行為をする人間を非難するあるいは攻撃することが目的となり、さして代わりがなくなる。

ここで理性を技術といいかえる。情報化でもいい。技術集約、情報集約による社会制御は可能か、ということになる。

2014年5月24日土曜日

子供を虐待する保育所改革

子供から学べる、と考えている親は少ないです。自分の面倒を自分でみれない未熟な存在としか子供をみてません。

 「「子供のための保育」から「親が働ける社会」へ。発想の転換なしに日本の未来はない。」

子供のための保育ではなく、親が働けるための保育を、とありますが、それならそもそも子供はいらないのではないですか。

なんのために生んだのでしょう。面倒だから買ったペットを捨てる、ごとき乗りです。

これだと一番効率いいのは子供をなるべく多く一定の空間に詰め込んでおとなしくさせる工夫でしょうね。

成人まで扶養するのも面倒でしょうから、早く大人にして働かせればよいのではないでしょうか。

ヒューマニズムの破綻への反動から、こうした機能主義が跋扈するのでしょうが、人間とは何かを忘れてこうしたところに落ち込んでいく議論は空恐ろしさを感じさせます。

ヒューマニズムとは別のところに本質論が求められるのはいうまでもありませんが、こうした議論の方向性だけでは結局子供の精神の破壊を生むでしょう。

こどもを生めと言って、子供の立場を抜きにせよ、と発想転換する、子供にとって未来が無いのであって、経済(学)的議論だけで割り切ろうとする限界である。


堀江貴文氏の功罪

吉本ばななの父親である文芸批評家の吉本隆明は、金儲けをするなら堀江さんのいっているようなことをストレートにやるのがいい、というようなことをいっていた。

しかし、吉本は晩年までコミュニケーションの道具という言語観を否定した。

堀江氏のいうことは欲望を情報の加速化、技術の集約化によって現実化し、障害になるものを排除していけばそれがビジネスになる、というものに思われる。

つまり情報伝達のスピードが決めてだと見ているとおもう。

戦争が生み出したものが原子力(原爆の応用)、コンピューター(暗号解読器)だといわれる。

そのうちコンピューターの用途は、コミュニケーションの加速とされる。

それは情報AをBへ伝達する速度が上がれば上がるほど、進歩した社会とみなされる。

それに対して吉本はどんな言語観を問題にしたのか。

たとえば言語表現において情報伝達だけの世界と、上からの指令だけの世界は、それを中継する個人の存在がなければないほどいい。

そこにいて、ある時空を占めていて、これを書き込んでいる実存の剰余はいらないのだ。

伝達目標を達成したら終わり、という世界である。

そうでない言葉とはなにか。

ラカンのようにそれ自体として欲望の対象になり、永遠に到達できない欠如としての穴でもある言葉(シニフィアン)ではなく、逆行する言葉である。

堀江氏は国家という枠は不要と考える。これに対して一種の逆行として共同幻想としての国家が過去の形でよみがえってくる場合がある。

つまり先に行こうとすればするほど、何か先祖がえりのような事象が発生するのだ。

コミュニケーションとしての言語は機能的に失敗と成功の二つしかない。

言語それ自体を使うことの自由度や創造性は想定されない。所与あるいは不問となる。

結論や結果が同じならば迂遠な回路を執るより単純な方法をとる。

言語の自由とかかわった精神の自由はそこにはない。




町山智浩が2014ハリウッド版「ゴジラ」を激賞

https://www.youtube.com/watch?v=MOCPukisPnU

内田樹

内田氏の一連のツィッターでの発言について。


「機動性」(mobility)というのはジョン・アーリの概念だと思いますが、彼が社会に代わって機動性を対置し、後にモバイル・マシンに対して不動性を対置したのは、もう二十年も前になります。初発の問題提起はスマホや携帯よりはるか以前であり、しかも最後には不動性を指標にしているのですが、「社会学を越える社会学」

ここでは日本文化、日本語、というものが、合気道の師範であり自宅を日本的な揮毫で飾っている彼が何をいいたいかは別にして、わかっていないということを言えば十分に思います。

 つまり、日本文化なり教科書化された国語なりが、あらかじめわかっていないから歴史の再定義が必要なのであって、それ以外でないのです。

ただここで彼は日本文化なるものをローカルに限定されたものとして普遍性を持っていないと考えていることはよくわかります。


また文化資本とは以前彼は肯定的にとらえていたようにも思いますが、もともと教育効果についての議論であり、彼がいっているのは文化資本を蓄積し継承する場と、表現する場が維持できないといっているだけのようにみえます。

2014年5月23日金曜日

現実と現実性

パウロ・フレイレという教育学者がいます。ラテンアメリカの文字を知らない労働者に文字を教えることで、現状を変えていく力を身につけさせていくというものです。

文字を知らなかった労働者にとって、文字を知る以前の現実と、知った後の現実は違うわけです。

 ひとつは誰がその現実を現実であるかとみなすかであり、人によって視線は異なります。

 そして上位から「これが現実である」と指令する支配者なり教師なり牧師なり導き手がいるのです。

先のパウロ・フレイレの実践は、植民地支配あるいは搾取からの解放という前条件がありました。

搾取されるインディオは、自らが極端に搾取されていることを言葉を通じて知っていくわけです。

 ここにはもちろん階級格差という前提の議論があり、その解消という目的の下に言語学習がなされていくわけです。

 カントは、人々が目覚めないのは、人々を導くものがいるからだ、といいました。

 はじめに「これが現実だ」と教えるものがあり、その枠組みが作用する現実がある。

 家庭教育と学校教育との関数ともいえますが、いずれにせよ私たちはそういう規制を逃れられない。

誰かがいったことが大半になるわけですから、現実というのはまわりまわってもう一回虚構になりかねない。

 言葉と現実は別で、にもかかわらず言葉で現実を認識するしかない。

 つまり言葉がすでに虚構性をふくんでいるという現実があることになる。

そして言葉が現実と分離して揺らいでいなければ、私たちは新しい世界を何一つ作ることができない。あるいは言語使用の自由はないということになる。

2014年5月22日木曜日

ハリウッド版「GODZILLA」初日の興行収入2014年最高額を記録

ハリウッド版「GODZILLA」の脚本家が描きたかったゴジラの姿とは

このゴジラには原発が破壊されるシーンや津波がもろに出てきて、3.11の問題を正面から取り上げているようですが、もともと第一作の「ゴジラ」も水爆で巨大化し、放射能を吐くようになった怪獣を描いたものでした。前回のイグアナのハリウッドゴジラと違って、原点回帰したといえるでしょう。

 ゴジラを倒す芹沢博士役は、今回は渡辺健で、バットマンからの定番的な感じですが、もともとは故平田昭彦が演じていたもので、私は見た目で京大の小出さんが出てきたとき連想したのですが、この博士(といっても平田氏の演じている様々な役柄ですが)、ウルトラマンを倒したゼットンを発明した新兵器一発で倒し、バルタン星人の大軍団も発明した光線銃で倒し、しまいには片目をを失ったミスターKとして、レインボーマンを相手に日本人を地球上から抹殺する「死ね死ね団」をつくるほどの博士(役者)なのです。

 話がそれました。新作のバットマンシリーズで、これまでにない描写、サタンとしてのジョーカー、救いのないバットマン、非常に時代を真っ向から反映した重厚な作品をつくった「ダークナイト」「ダークナイトライジング」のレジェンダリー・ピクチャーズが、これまでにないゴジラを作ったといえるのでしょう。

 「ハリウッド版『GODZILLA』(日本公開は2014年7月25日)の週末の推定興行収入が、約1億9,620万ドル(約200億円)で世界1位を記録したことが明らかになった。」

 この映画のなかで芹沢博士役の渡辺健が米軍高官にアメリカは日本に原爆を落としたというシーンがあり、アメリカの観客は一瞬沈黙したらしいです。

 関連記事 映画『GODZILLA』が世界的なヒット ゴジラはなぜ “GOD” なのか?:クリスチャン・トゥディ

神社は町おこしの中心

経済人類学では非市場社会においては宗教的儀礼と経済的活動の区別がなく、支払いとは祓い清めることであり、貨幣は宗教的呪物としてもっとも価値を持つものであり、社会を統合するものでした。

そして「社会」の定義としては、
  1. 同じ貨幣を持ち

  2. 同じ祭りを行い

  3. 同じ刑罰、タブーを持つもの、
と定義されました。

祭りは共同体の成員に対する財の再配分の機会であり、「市」はその機会に立てられました。

日本民俗学の創始者の一人柳田国男は、神社の立てられる場所を関東のような台地においては水が湧き出るところで、そこから田畑に水をひいたとみなしました。

神社は共同体の宗教的儀礼の要であり、そして財の再配分の経済的場所だったということになります。

そして神社は国家神道批判があるように天皇に一元化されるシンボルだともいわれるのですが、もともとはその土地の神であり、日本が場所連合として成立する際に天皇をその連合体の象徴にする際に天皇家との関係も付与されたものです。

もちろん日本全体の財の配分、税やサービスの貢納とそれに対する報奨というように国家レベルでの経済と象徴の統合的行為があるわけですが、さらに個別の場所において経済的機能を担っており、共同体の中心でした。

現在も最も古くから残っているものは神社と地名、地形と仏閣などが多い。

これは思想というより、共同体の歴史、精神史ともいうべきものであり、現在でも活用されるのを待っているのです。

そしてそれにはまず象徴として取り戻さなければいけないだろうというのが、私の主張です。


消滅する豊島区と子供が増える世田谷区

豊島区が消滅するという以下の記事について、記事(<消滅可能性>豊島区)を書きましたが、


<消滅可能性>東京都豊島区「昼人口多いのに」「寝耳に水」

「全国1800市区町村の半数に当たる896自治体で、子どもを産む人の大多数を占める「20~39歳の女性人口」が2010年からの30年間で5割以上減ることがわかった。豊島区は、東京23区で唯一、「消滅の可能性」を指摘 」


一方世田谷区は一年に千人ほど未就学児童人口が増大しているというあり様。


文化都市宣言をした高野区長の思惑とは別に、なぜこうも違うのか。


世田谷区の広報ツィッターをフォローしていて、こういうのが来ました。




このリンク先をみていて、カリキュラムを見ると、糸紡ぎから機織り、藍染めまで一通り習えるようです。つまり、衣食住でいえば、衣にあたる部分の布作りまでは体験できることになります。


ほかにそば、うどん打ち、木挽き、茅葺き、紙漉き、包丁研ぎ、味噌づくりなどありますが、こうした試みは豊島区ではないのか、ツィッターで公式にあるのは防災だけで、もちろん区長が積極的に世田谷のように使用してはいません。


私は文化都市といいながらITを使えない、発信をおろそかにする、ということは、防災都市なのではないかと思います。そして、防災が目的である以上人が消滅すれば災害は起きないのです。
 

スマホを使わない私が思ったスマホアプリバブル

基本的に起きていることは「情報の個人化」であり、PCが小型化しているといっていいと思う。ウェアラブルというのは脳に直接PCを接続するまで行くだろう。

そこで起きるのは、個人のメディア化というより、メディアの消滅である。

問題は、企業も党も学校も国家もメディアであり、それらを飛ばして個人が直接情報を処理しなければならないということである。

近代国家そのものがメディアであったのだから、それらを飛ばして個人が直接に情報処理する、そうした未曾有の自体は人類は直面したことのなかったものであろう。

ここでよく言われるのが日本人の主体性の確立であり、西欧個人主義の再評価だったりするが、そのような個人はもともと存在せず、情報、教育、知識、言語の意味が徹底的に問い直されなければならなくなるだろう。

今のところメディアの囲い込み利権による操作を前提にした議論が大半なので、これがいったいどういう意味を持つかはもう少し時を待たねばならないだろう。

2014年5月21日水曜日

アイデアのつくり方

ジェームス・W・ヤングのこの本は、

アイデアの成立過程を、


  1. 資料収集

  2. 資料解読

  3. 思考放棄

  4. ひらめき

  5. 現実の有効性へ具体化、展開

の五段階としています。

3の思考放棄は、解釈した資料を一旦思考の外へ 捨ててしまうこと、何かが浮かび上がることを待つことです。

そして4ひらめき、がやってきて、

5の実際性に落とし込む段階がまっています。

最後の段階が「翌朝の冷えびえとした灰色の夜明け」と名づけられていますが、生まれたてのアイデアを現実のせちがらさに適合させるため、胸にしまいこまず、理解ある人々の批判を仰ぐこと、とあります。

良いアイデアはそれ自身で成長し、人々が刺激され手をかしてくれる。はじめ見落としていた可能性が出てくる。


30年前のプラモを作る

まず、ギロチンのプラモデルから。これは最近復刻されたもので、モノ自体は50年以上前ではないでしょうか。
 
   

次は、ミイラ男。これも同じくらい古い。復刻版で30年前。
次は、からかさ。これはもともとは40年以上前と思いますが、復刻版で30年ぐらい。
次は、ステゴザウルス。昔の復元模型。左がイギリスのエアフィックスで40年位前。右がタミヤで30年前くらい。
 次はスターウォーズのC3POが2つあったので一つを青竹色にしてB3LE(ブルース・リー)とした。35年前。

次はバルタン星人。25年前。 バンダイ製。

 これは30年前に作ったもの。これら以外はほとんど30年前に作りかけ放置していたのを去年作成
ゴモラ。25年前ぐらい。
 ガメラ。左に転がっているのはドラキュラ。
ぺギラ。

 今回不足して唯一買ったもの。エナメル塗料薄め液、接着剤、ラッカー薄め液。塗料は30年前のを全部使用した。

 ジムを運ぶザク。中学生のとき作って放棄していたもの。
 うしろ。
 エイリアン
 ゲルググ、ゾゴック
 キングギドラ
 ウルトラマン
置く所がない

 おつきあいいただきありがとうございました。

2014年5月20日火曜日

私のガチャガチャ

ガチャガチャ・ガチャポン専門 あミューズ

のサイトを見ると、本体が気軽に買えますね。

私の幼少期のイメージは、

これ、に足がついたやつ。「20円」ぐらいだったと思います。

裏ワザ 、は引っくり返して出穴に入れる、というもの。すきなカプセルが穴に入るまで何度も繰り返す。

それでは、私の玩具の墓場からおよそ40年前のものを出してきます。

まず生物もの。
卵形のカプセルに入ってます。
次はガンダム。カプセルが溶けちゃってます。自分で彩色してますね。なんという無駄な情熱。
他にもこんなに重複がある。
初期のウルトラ怪獣、SW、怪人、妖怪、志村。この頃はほとんど消しゴムですが、消せない消しゴムで、スーパーカーからの引継ぎでした。
めまいがしてきたのでやめますが、もっとふざけたものはいっぱいありました。谷中でアートイベントやってたときに芸大の学生の作品なんか展示場でガチャガチャに入れて売ってましたね。200円かな。おみくじもみた。自分で小物を作って売れるわけです。当たり券とか。握手券とかに使えるかな。

最近のものは中野まんだらけ に行けばあるんじゃないかなあ。

三流大学について

「オランダには、大学入試がありません。そのため、塾も受験産業もほとんど見かけません。高等教育機関の卒業試験をクリアすることで大学入学資格を得ることができます。日本の教育と比べると、あまりの違いに愕然(がくぜん)とします。そうした教育システムの源流を探ると、ある理念に行き当たります。それは、「教育の自由」というものです。」保坂展人 オランダ報告(2)「受験なき教育」 3学年が一緒に学ぶ



三流大学なら行かないほうがまし、と慶応出身のある教授は言ってましたが、慶応には明らかに裏口入学がある、とも言ってました。

ある芸術家(本人は非大卒)が、芸大(東京芸大)と他の美大の連中はやっぱり違う、と言っておりました。

知ってる限りで早稲田の学生はみないいところへ就職しましたし、東大の院生は東大はどんなことやってもつぶれない、とつぶやいていた。

その大学毎の文化資本があり、環境の差異がある。

同じ大学でも学部が都心以外にあると田舎臭くなる。

また国立と私立は違う。

大卒と高卒は違うし、専門学校卒も違う。

時々小学校も行ってない子がいる。

さて、18歳以上の労働人口の再配分機能を持つ大学受験は、一流大学とその他の差異をも生む。

では、どうするか。

三流大学があるのは、一流大学があるからなのです。(受験制度の必然という意味)

結論は学校をなくしてしまえ、です。19世紀的工場の展開である学校システムは、自己目的化した試験制度とカリキュラムをそなえ、もはや旧弊な象牙の塔でしかありません。

情報化社会の学習システムは、違うあり方が求められています。

国語算数理科社会、などの分類や、6,3,3,4制などは、何の意味があるのでしょうか。その制度の下で利益を得たもの、得るものが誘導して維持しているシステムでしかありません。

すべて考え直すことができ、考え直すことができるものです。教育という概念が終焉し、学習にとってかわるのです。

歴史の断絶を埋める地名と神社

社会企業家という言葉が日本に出たはじめと、NPO法人化のはじめに僕はいました。そのとき僕はあちこちまわり、見聞きしました。

当時は何も実態がなく、無認可保育園が社会企業というのは、隙間産業を狙ったからだ、と保育所の経営者に聞いたことがあります。

空家や古民家は建築系の学生を中心に、あちこちでリノベーションが行われていました。

しかし学生が卒業して終わったり、若い人しか集まらず、あるいは若い人が前の世代に対抗して作っているという意味合いも生まれてしまいました。

私がその後、日本でホスピタリティ銀行を唯一商標登録している、地場金融機関の巣鴨信金で行われていた研究会などに行って思ったのは、歴史の軸が欠落して、世代的にも人的にも分断されてしまっている、ということでした。

店や場所が一件、あるいは数件点在してもそれは点でしかなく、その地域における面として広がっていかないのです。

そして私が古地図や地域史を引っ張り出してきて目をつけたのは、地名と神社でした。

変わってしまったものもありますが、変わってないものはそれらと仏閣だったりするからです。

地名の由来や神社などをイベントに常に絡めて考えていくということです。

そして見えなくなってしまっていても、その土地にはその土地固有の神がいる、神話がある。

地域のキャラクターというのは、現在の店や物産などの部分ではなく、イベント、祭礼などと絡めて歴史貫通的に創造されるべきで、その手がかりが地名や神社だというものです。


学校つぶして農地にしよう!PCあれば校舎は要らない!

少子化による空いた校舎の活用がいわれていますが、農地にすればいいのです。解体が面倒なら校庭と校舎で栽培でもすればいいのです。

コンピューター時代に校舎は要りません。一人の教師に集団がぶらさがる教室など時代遅れの工業化時代の産物です。

集団作業とよくいいますが、農業でやればいいだけです。

食料上の安全保障にもなり、新鮮な食物が食べれます。

2014年5月19日月曜日

商品・制度・社会をひらく


以下のツイートを発見した。


記事はダイヤモンド・オンラインにあった。

 分散市場と自動化企業が作る未来社会――起業が容易になれば社会は進歩する 
 
私にとってはDACというのはよくわからず、ビットコインも決済方法として有効なら個人間で使われていくだろうということしかわからない。しかし大石氏のこの「近代の終わりを決定付けた」という話の意味だが、私はこう拡張解釈してみたい。商品・制度・社会が近代の産物そのものであり、内に閉じることによって構成されてきた。ブログでいえば自分の記事に集中させることが利益であり、意味を外へ分散させていくことは利益ではない。しかし、利益とは常に外部にあるものであり、外に採りに行くものである。自分の考えたこともない世界へ常に拡張させて開いていくことにしか、利益獲得の方法はない。商品・制度・社会は環境生存経済へと開いていかねばならず、そのための言葉の実験は常に対象を外に求めて新たなことを考え続けていくしかない。

2014年5月18日日曜日

場所の再構築

前回中途なので続けてみます。城南信金の理事長は脱原発宣言をしました。大企業との資本関係が無いため可能だったと思われます。大銀行は大企業と取引があり、大企業は原発関連に投資をしているので脱原発はその利害関係を崩してしまいます。

城 南信金は住宅ローンか家賃収入がメインの収入だったと思いますが、信金は中央に一定額納めなけらばならない仕組みがあり、それは原発に使われているので、 城南の理事長にいわせれば、「お金は全部つながっているので変えられない。ゆえにオピニオンで変えるのだ」、となります。

住宅関連がメイン収入というのは城南地区がベッドタウンだからなのでしょうが、そこの役割分担ということになります。

私は震災以降、安全保障上の問題としても、エネルギーと水を含めた衣食住を、行政区画上の自治体範囲でなく、実際に可能な生態系範囲で再生産を確保することがこれから必要だ、と思いました。

その場合原発を使うかどうかはその地域の個別判断です。

これは自由貿易に反するといわれますが、先例というかモデルがあります。

ちょっと疲れているので、また次回につなげます。

心的現象論総論という書物

この本ははじめの資料提供に私がかかわったので、たまたま5,6回通して読んでいたため、自分にしかわからない点があったので整理して後世に残したい部分があったのですが物理的に関心が維持できないのであきらめました。

2014年5月17日土曜日

場所の再構築

前回中途なので続けてみます。城南信金の理事長は脱原発宣言をしました。大企業との資本関係が無いため可能だったと思われます。大銀行は大企業と取引があり、大企業は原発関連に投資をしているので脱原発はその利害関係を崩してしまいます。

城南信金は住宅ローンか家賃収入がメインの収入だったと思いますが、信金は中央に一定額納めなけらばならない仕組みがあり、それは原発に使われているので、城南の理事長にいわせれば、「お金は全部つながっているので変えられない。ゆえにオピニオンで変えるのだ」、となります。

住宅関連がメイン収入というのは城南地区がベッドタウンだからなのでしょうが、そこの役割分担ということになります。

私は震災以降、安全保障上の問題としても、エネルギーと水を含めた衣食住を、行政区画上の自治体範囲でなく、実際に可能な生態系範囲で再生産を確保することがこれから必要だ、と思いました。

その場合原発を使うかどうかはその地域の個別判断です。

これは自由貿易に反するといわれますが、先例というかモデルがあります。

ちょっと疲れているので、また次回につなげます。

東京の空き地を農地にしよう

今自宅の向かいの家屋が解体され更地になりました。

社員寮と思いますが、解体工事で毎日地震のようにゆれて精神的に疲れました。

地盤の関係で近隣に新しいマンションが建つたび地震のときに大きくゆれます。

私はスローライフの実現には東京に農地がもっと増えないといけないと思います。

北区や巣鴨周辺には牧場があったといいますが、明治維新以降146年しか経っていないのに東京もほぼ農地ばかりだったのが消滅してしまいました。

近隣の小学校の校庭で畑をつくってるようですが、そこの児童だけが使用できるようです。

住居の近場に農地があり、自分らで作るようにしないと東京には住めなくなっていくのだと思います。

人間本性について(フーコー対チョムスキー)

チョムスキーは言語学における変形生成文法の設立者で言語学者、左派の思想家として有名で最近来日もしました。以下はフーコーとの対談ですが日本語字幕ですが時間が十分の一ぐらいしかありません。フーコーの視点は左派のいうような政治改革の可能性について徹底した批判の立場で、マルクス主義と構造主義の対決ともいえます。サルトルはフーコーを「ブルジョワジーの最後の砦」といいました。日本でフーコーは吉本隆明と元東大総長の蓮見重彦氏の通訳で対談しました。
フーコーは左派が批判の対象にするような警察や軍隊のような組織と、病院や学校という福祉の領域に入るような制度を近代社会の装置としてセットに見ます。そして基本的人権を支えるような人間本性の定義を時代とともに変わるものとし、人間についての永続的な定義を否定しました。フーコーの定義だと左右の違いはほとんどなくなり、近代社会とそれ以外の社会に分かれてしまいます。理論的反人間主義とは人間について固定的な定義を避けるものであり、永続的な問いかけともいえます。理論的反人間主義こそが真の人間主義の唯一の道だ、といったのはルイ・アルチュセールという人ですが、理論というものにどう向き合うかが文化の要であるという考え方だといえるでしょう。
つまり現在の社会での「正義」が、来るべき世界に必要とされているかはわからないとするもので、普遍的正義は西欧の財産であるとするチョムスキーとの対決です。
 そうなると、政治における主体性がみえなくなります。フーコーはニーチェをひいて無秩序の暴力の連続的発展の歴史としますが、それだとたまたま勝った者が勝っただけになります。

 フーコーとチョムスキー ~人間本性について~(日本語字幕)1/2、 2/2



フル動画は以下です。

2014年5月16日金曜日

LGBTと共同幻想論

欧米の性差、ジェンダーをめぐる議論で一番核になっているのは、主に文芸批評の分野におけるフレンチ・フェミニズムの理論で、フロイトからラカン経由の精神分析議論が入っています。 膨大な文献がありますが、有名になったのは「ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱」です。 欧米の議論で驚くのは生物学的性差、オスとメスであることが生み出す違いを一切認めないことです。 その見地からすると渡辺淳一氏のように医師の見地からの解剖学的女性論はすべて男の幻想になる。 僕もいくつか原書を持ってますがとても追いつけない。日本で議論が深まるにはもう少し場が必要でしょう。 これは居場所とかかわる問題だと思いますが、吉本隆明の共同幻想論では対幻想という概念で男女問わず「一対一」の関係性を問題にし、3人以上の集団性を共同幻想とし、自分自身との関係を自己幻想とします。 精神分析理論は対幻想の問題をあつかっているのですが、この三つの次元、とくに共同幻想という概念は欧米の思想家にはまったくありません。 地域が自立していくためには場所の共同幻想の構築が必要になるというのが僕の視点で、そのために地域史をひっぱってくる。 スマホなどでは恋愛、つまり対幻想の物語がメインになっているようですが、私の関心は失われてしまった土地の幻想にあり、神社祭礼などを調べている。

他人に役立つ自己紹介

他人に役立つ自己紹介、自己評価ができれば、それを導線にしてふくらませていくことが可能と思いました。ただ、それがなかなか簡単ではないのです。

2014年5月14日水曜日

貨幣数量説


タイトルだけで難しい観がありますが、フリードマンは金さえ刷っていればいい、インフレターゲットを定めていればいい、というだけだったと思います。

ただ前提として市場化とか、自由化があります。

ここでケインズがどう入ってくるのかということですが、ケインズ=公共投資でいえば、マネーサプライの調整自体結局そのセクターにとっての公共投資なのだ、ということかと思います。

もともとフリードマンは公共投資は官僚化をうむので、だめだいうことだった。教育も民営化しろといっていた。

ドラッカーは貨幣を調整できる考えそのものが過ちだとした。

 貨幣の発行主体が国家であり、独自のセクターによる制度だとすれば、結局公共投資と変わらなくなる。

ここに批判が入るのですが、日本の問題は少子化でそこに手当てすることが公共投資だという説は聞かれます。

 で、民営化=資本化なのかという問題が小泉政権時に提起されたと思いますが、結局これは共産主義の実験の批判、国家による強制撤収=平等な分配、がどうなのかという問題につながります。

ウクライナでは農家が野原一面広大な土地をわけあたえられ、これはよいことではないないのかという議論がありますが、結局農薬の過大な使用で土地がだめになったといいます。

資本主義を超克する実験、という場合土地の問題は主要だとおもいますが、もうすこしのべてみます。

城南信金の理事長は脱原発=脱産業文明、をかかげていますが、信金の

地獄のミサワ公式ホームページ作成会議2014

付和雷同の広告収入

アドセンスが承認される方法がわからないのでむなしく過ごし、何か批評的突込みがないと改善の余地がないなと思ってあせり、他の人の投稿にコメント入れてみても意味不明にしかかけず、こうではないかと思っても遠慮し、強い意見は後回し、無駄な対立は避けたい、記事にして書いても誰も読まないし他人の参考にならない、というわけで失敗観が強いです。思い出せば十年は書いてました。
池田さんがちきりんさんの日記をRTしてましたが、

みんなが叩く人は自分も叩いていい、と考える人は怖いですAdd Star

私の意見と無理やり合わせてみます。
こういう人は情報伝達だけして自分の意見がないのです。あるいは自分を表現してないので、誰かがいったこと、やったことを鵜呑みにするか、自分の利害関係の打算で動いているのです。

これは池田さんの、本を読むかどうかと、ブログはアートであるということに対する応答記事

イケダさんへの応答

に書きましたが、吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」の自己表出と指示表出という言葉が元で、それにラカンのシニフィアン理論を重ね合わせています。

指示対象抜きの言葉、という考えは観念論として退けられてきましたが、一般的な解説は

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読む(1)高橋順一Auslegung-Yoshimoto-Takaakis 

でもご覧ください。

社会・商品・制度の現代神話の枠組みでは上限が設定されていて、その穴埋めをするだけで創造性はないのです。そして必ず限界がやってくる。


2014年5月12日月曜日

イケダハヤト氏への応答

池田さんから学んだことは、ブログはひとつの世界を作る、ということです。情報をAからBへと伝達すること自体が収益になっているということをネットの世界で知りましたが、本来それは価値ではない。


意見と事実を日本人は峻別できないとよくいいますが、もちろんこれは意見です。


じぶんの世界を言葉で作りえないで、あの人がこういったとか、誰がこうしたということをいっているようでは進歩は望めません。


物書きといっても、情報伝達屋(僕はこの仕事をしていましたが)と創作は違います。

じゃあどうすれば良いのか?まず自分がなぜ、その書いた対象に興味を持ったかを書くこと。

つまりその人がいないと物語りははじまらない。

そして、その物語がどれだけ普遍性、あるいは個性があるか。これは自分を語りだすしかなく、個性はその深度によるのでしょう。

 あと本を読む必要があるかどうかですが、今述べたように本に毒される人がいるので僕はすすめません。


でも選べというならば、漱石「吾輩は猫である」と、黒崎宏「ウィトゲンシュタイン「哲学探究」読解」です。


太宰は評価が定まってませんし、漱石のこの処女作にはありとあらゆるアイデアが詰まっています。


ウィトゲンシュタインは知識や言葉の放棄の書です。その放り投げ方が爽快なので読まれています。人はすぐに言葉に騙されるので、徹底的に投げ捨てるウィトゲンシュタインの洗礼が必要なのです。

 

2014年5月10日土曜日

<婚活>政府支援に46都道府県から求愛殺到

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140510-00000059-mai-soci


「男性の5人に1人、女性の10人に1人が結婚しない今」 となると結局男があぶれることになります。外国人頼み、でしょうか。


【子どもが生まれないと…消滅可能性、自治体半数】 と記事にリンクがありますが、 英語で言う出産=再生産の必要であります。


早稲田大の森川友義教授(政治学)は「婚活パーティーなどに税金を投入することへの議論はあるが、参加者が結婚して子どもを産み、その地域に住んでもらえれば将来的に元はとれる。男女を引き合わせるだけでなく、そこまでのフォローが大切だ」と話している。 とあります。


「内閣府によると、当初は男女が飲食店で集う「合コン」への交付金活用を認める案もあったという。自民党幹部などから「税金で飲食させるのは国民理解が得られない」と反対論が続出して見送られた。」 とありますが、こういうのなら行ってもいいかと思ったりしますが、結局仕事があるかで決まるでしょう。

米は主食ではない

日本人のソウルフード、という人がいますが、東北ではイモ正月という言葉があるように、渡来作物である米は日本列島に限っていうなら外来種です。渡来人が稲作技術とともに持ってきたものです。 そして稲作民が拡大して統治していく過程で稲作が伝播されました。 東北のほうは江戸時代に無理な干拓がたたって、埋立地が拡張されたためそこに住む人間は繰り返し津波にあっています。 目黒区史には、あわ、ひえ、きび等が主食で、米は年貢用に作って外に出していたという記述が見られます。 ここでは米は貨幣であり、そういったシンボルであるとはいえそうです。

2014年5月9日金曜日

待機児童や学童クラブ廃止は単に保育所や学校に子供を置いておければ良いのか

子供からすれば何でもいいから保育所や学校に放り込んでおけばいいというのはたまったものではないだろう。

預けなければならないのか、預けなくてすむのか、


究極のゴミ屋敷

ゴミ屋敷という言葉は最近聞かなくなりましたが、近隣に「究極のゴミ屋敷」と鳥越俊太郎氏にテレビ番組でいわれた家屋がありました。

なにかボクシングをやっていた人らしく小さい二階家の玄関にグローブが吊ってあり、海亀の置物のようなものが一緒に並んでいました。

二階の窓はガラスが無く、吹き抜けになっていて寝袋で寝ていたようです。しかし電気は通っており、真夜中にテレビの光と音が二回の穴の開いた窓から見えました。

テレビ番組でそこのレポートをしたリポーターが自殺してしまったらしいあの方だったんですが、この家屋は道路沿いに面しているというので倒れたら子供の通学路でもあるので危ない、ということで区が金を貸して解体して、住人は入院させられてどこかへ行ってしまいました。

十数年経った今でもその地は更地のままです。

 

学校は監獄か:フーコー「監獄の誕生」

70年代後半に世界中に学校教育批判の嵐が起きました。この「監獄の誕生」という本もその流れで書かれたものです。タイトルは本来「監視と処罰」というもので、邦訳は副題の方がひっくり返って主題になっています。

学校、病院、監獄、工場というものが相互作用して互いに人間管理を学びあいながら手法を導入していったというもので、ざっくりいえば人間をを統計的人口と解剖学的身体という側面で行政的に管理するシステムの一環として学校、病院、監獄が存在し、目的は労働力として資本に統合することです。
一望監視システム

つまり国家の基本的な支えである教育、医療、刑罰、などの装置がはじめて人間を人間として労働市場に統合させることができるということです。

国家論ではないので具体的な事件に対する措置や身体に対する処置が記述されるだけですが、フーコーはこうした制度を支える言説として経済学、言語学、生物学を指定し、この三つの相互作用の派生として社会学、心理学、教育学、犯罪学をみなします。

そしてこうした学説と制度上の強制によって、異常、犯罪、逸脱、愚鈍、病気、狂気を矯正し、労働市場にとって「役に立つ」人間にするのです。

フーコーは国家を批判しているのではなく、西欧近代社会という特有の制度の、他の時代との違いを問題にしているのです。



ギャル文化=キャバクラ全盛時代の終わり

ギャル雑誌の購買層を知っている人たちには周知のようですが、ギャル文化というものはキャバクラとその予備軍によってつくられたもので、基本大卒未満の層なのですが、女子大生でも裕福でなかったり親と離れて稼ぎたい場合はてっとり早くキャバクラやより高級クラブにいったりします。女子大生専門の店の場合ギャルカルチャーは浸透してないでしょう。

客層はやはり大卒未満の職人、肉体労働が昔は多く、今はサラリーマンがメインでしょうが、ギャル的な人は自営業かサラリーマンと結婚してやめていくのでしょう。

いいわけはつまらないですが当然このような図式はデッサンであり、私自身は低学歴の肉体労働で安キャバクラも よく行って無駄に金を使いましたが、誰かを批判したり貶めようとするものではありません。

わたしの関心は相変わらずも以下の図式にギャル文化がどう位置づけられるかにあり、たぶん
アメリカのスクールカースト

不良かゴス、ヤンキー系は不良で、大人しいのはゴスでしょう。実際には中間みたいなのが混じっており、さらにマイナーセクターで不良のカーストが考えられますが、今日はこれまでにしておきます。

病児保育協会のゆるキャラがデビュー

(財)日本病児保育協会のゆるキャラがデビューしました! 

「「ほっとせい」です!」

ここで思い出すのは




















これはアザラシですが



水棲類人猿説!です。







当然これはトンでも狩り叩きに会うので関係ないとばっちりを受けないために飛ばしますが、人類の直立や裸や皮下脂肪の理由が海辺にいたからだというものです。








人気漫画「刃牙」ご当地ナンバー、府中が交付

人気漫画「刃牙」ご当地ナンバー、府中が交付へ

「漫画のご当地ナンバーには「ルパン三世」(千葉県佐倉市)、「名探偵コナン」(鳥取県北栄町)、「イヤミ」「ニャロメ」(青梅市)、「ゲゲゲの鬼太郎」(調布市)などがある。」

自分たちのシンボルでなく、あるいはあらたに生み出すのでもなく、すでに知名度のあるイコンを使ってしまおうとのことだが、 公募して生み出すとか皆の案を集めるとか少しは手間をかけたらどうかと思う。

豊島区のように生活空間の整備抜きにシンボルだけ作っても仕方ないが、生活空間を再生するビジョンにその土地のシンボルは必要なのだ。

<消滅可能性>豊島区

<消滅可能性>東京都豊島区「昼人口多いのに」「寝耳に水」

「全国1800市区町村の半数に当たる896自治体で、子どもを産む人の大多数を占める「20~39歳の女性人口」が2010年からの30年間で5割以上減ることがわかった。豊島区は、東京23区で唯一、「消滅の可能性」を指摘 」

「人口約27万人。人口密度は1平方キロあたり2万673人(13年)と、全国の市区町村で最多。池袋駅は1日乗降客数が約250万人。「消滅」のイメージとは結びつきにくい」

「仮に」この推測が本当だとして、誰でも言えるようなことを言ってみるならば、文化都市宣言をしたものの、生活しやすい空間が文化であるという視点がなかった、 といえそうですが、自治体のできる範囲でどれだけできるのかわかりません。

子供を文化的な土地で育てたいと思うならお隣の文京区に行くのではないでしょうか。

また、「理由」がないので考えようが無いのですが、引用すると「長男(1)を抱いて区役所を訪れた女性(35)は「子育てにしっかりとカネをかけないと、いずれ『消滅』が現実のものとなるのでは」と突き放す。保育所の確保が難しいため、他の自治体への転出を考えているという。」

というと世田谷と同じ待機児童の問題ですが、本当にそうなのか。

以前書きました(豊島区の由来)が、豊島区はもともと巣鴨村池袋村と雑司が谷村と長崎村と高田村の集合体で「豊島」の中心ではありません。 西巣鴨村とまとめていわれたこともありますが、豊島というなら北区豊島があるように豊島城のあった平塚神社中心に北区(滝野川区だった)が豊島区というべきでしょう。

だから豊島区など名前ばかり大きい砂上の楼閣のように消えてもいいのですが、もともと行政単位、特別区制度そのものも仕切りなおしするべきでしょう。おそらく利権化して再編成できないのです。

家電の寿命が短い

家にある家電は30年の電気釜、電子レンジがあります。何故現在の家電の寿命が短いかというと、まず、生活必需品が一通り行き渡り、新しいものを買う必要がなくなった。そのため、ものが売れなくなり、より壊れやすいものを売って買い換えさせて利益を図る。

もともと家電に限らないと思いますが、その時点で技術的に最高度のものを出さず、業界内でカルテルを結んで小出しにしていく。あるいはアメリカにおける電気自動車のように作ったものを石油業界の都合により圧力をかけてつぶしてしまう。

既存の利益の再生産の枠組みを保持するということですが、それではこの悪循環をどう抜けるか。

私が聞いた話は家電をはじめから家に埋め込んでしまい、一緒に販売する。メインテナンスをサービスの中心とする、というものです。つまり最高度のものをはじめから提供し、維持業務を利益にするということです。

冷蔵庫も壁に埋めて電灯も天井に埋め込んでしまう。

これが可能かはわかりません。聞いた話です。



2014年5月8日木曜日

MANGA


3Dプリンタで製作したピストル

こんなものは鉄パイプでもなんでも作れるので、プリンタと関係ない。弾がなければ使えず、弾があれば何を使ってもできる。

古本の呪い

古着は気持ち悪くて着れない、人からものを借りることはしない、といった人がいた。

それなら古本も同じことだろうと思った。

本にはその中身と違った物質性、「もの」としての価値がある。しかしそれは普通感じられない。異常な妖気を帯びた古本が店頭にならんでいても、人は通り過ぎるのだ。

湿った人は湿った本、黄色い人には黄色い本。

精神世界系の本棚にいって手にとるとそういう「感じ」がする。

その本を手にとって見た人の思い入れが残っているのか、もともとの版元からのバイブレーションなのか。

探していた本が最後に店を出るときにたまたま見つかるということもよくある。

古本の収集家で、両方とも死んだが山口昌男という人と黒沢比佐子という人がいる。

山口氏は一時期神保町の本が買い占められているといううわさが立ったが、大量に本を買っていた。

十数年前に脳梗塞で倒れて、その後酒を飲んで8年間ぐらい意識不明のまま亡くなったそうだ。

黒岩氏は52歳で膵臓がんで急遽した。酒など飲まなかったはずだ。



平成仮面ライダー

東映公式で少し見れますね。クウガ以外はここで見ました。https://www.youtube.com/user/TOEIcojp クウガはギャオで少し見れましたが今はわかりません。僕の感想は555あたりで円熟して電王で終わり、牙以降は見なくなりました。全体としてはストーリーが後半で破綻して投げやりになるというのが印象です。

アメリカで24やプリズン・ブレイク、ヒーローズやロストなど、TVドラマが流行った背景には映画の2時間では語りきれないものを描写するというメリットがありました。

平成仮面ライダーはストーリー展開がメインですが、玩具業界の要望で毎年世界がチェンジしてしまいます。

序盤は盛りだくさんの壮大なストーリーやなぞが展開していくのですが、最後に盛り込みすぎて破綻する、という感じです。 

毎年更新されてしまうというのが、世界的な永続的なヒーローにならない理由ではないでしょうか。

ある哲学者の死

小阪修平さんという人がいた。 予備校の講師の地位に甘んじて、自分の言説がどのような層に受け入れられるのか、どうしたらよいかを全く考えなかった。

FBにアドセンスつけられれば楽

アドセンスの承認が複雑でやっかいな上に結局できそうもなく、ネタはFBのアーカイブから出しているようではFBを公開にしてアドセンスつけられればよっぽどいい。本来の目的は他人に有効性を説明できないコンテンツがあって、それを保持するために収益化を別ではかるということだったが、本来の目的からどんどん外れていく気がしてやる気がでない。

絶対に会社をクビにならない方法

といっても私が人から聞いた話で実際に自分がやってみた話じゃありません。その内容は事を大きくして戦線を拡大して、クビにしたら向こうが損をするように持っていけばいいというものでした。法律を盾にして訴えるといえば向こうは退いてしまうというものです。

ブログを書く意味

自分で自分の役割を決めてしまって、その役割を演じている間は何も新しいことはできません。新しいことができないならあえてブログを書く意味などないはずです。言葉を使っているうちに自分も思いもよらなかった世界に連れ出される、そのような文章が理想です。あらかじめ変える世界や変えるべき方向が決まっているのではなく、言葉を使っていくうちに発見していくものです。ブログは語られた世界がどこまで遠くに行くかを競う場だ。

マスクはカビ臭い

顔を隠すのにマスクが手放せないという人が増えています。変身願望のようなもので、メイクやヘアスタイル、ファッションの延長線上で気持ちはよくわかります。でも、鼻腔内には常にブドウ球菌などの菌がいて、青い鼻水のように繁殖の機会があれば一気に増殖します。

私は鼻の手術のとき鼻血を止めるために鼻の穴の両方に栓をしていましたが、たった数日で栓を抜いたときに中に大量の青い粘液が出てきました。

マスクを外してかび臭いキスをする、のが好きな人はお試し下さい。

イノベーションと起業家精神

これはドラッカーの言葉ですが、ルーティーンワークと創造性のような対比でとらえられてきました。私は人間の生活基盤における文化の核がないと最終的にイノベーションはできないと考えていて、故に古事記まで遡って神=魂といっているわけですが、この意味は日本文化が絶滅するまでわからないのではないかとさえ思っています。

ドラッカーは場所の文化資本について語っているのですが、語りきれていません。社会的価値といっているのですが、社会というものは実はありません。個々の層があり、クラスタが分類によって現れるだけで社会一般などというものはないのです。

かのように、語られるのが社会ですが、国家とは何かとおなじで究極的には定義できないのです。国家とは国家であるから国家である。権力は権力だから権力だ。同義反復でしかないのが国家です。

結局はあるクラスタが社会一般の利益を偽装して主張しているだけで、一般的なものは常に部分が全体を主張する際に持ち出されるものです。

 ドラッカーのフリードマン批判やフリードマンの自由主義とマネタリズムについては別のところで問題にしたいと思います。

たぬきのきんたま

信楽焼きのたぬきは、
のようにタマがでかいです。宮崎駿の「平成狸合戦ぽんぽこ」は、外国ではタマをふくらます描写が問題になったそうです。

招き猫は世界中にありますが、たぬきの置物はそばやなど日本中にありますが世界にはほとんどない、タマの影響ではないか、という説をどこかで読んだ。

しかし、本来のたぬきにこのようなタマはありません。

でも、タマのあるのがいました。

ハムスターです。

信楽焼きのハムスターはどうでしょう。


学校教育制度

本日のお題は「学校教育制度」。まず、世田谷区長のツィッターからネタを拾う。

15分
オランダの教育視察で、ハーグに来ています。ほとんどの子どもが4歳から入学する小学校には、4歳の翌日の誕生日から入学するそうです。オランダには「教育の自由」が確立していて「理念の自由」「設立の自由」「方法の自由」が保障されています。独自教育のオルタナティブ学校も発展してきました。

学校の設立はかつて200人規模の生徒で承認され、70%は国基準の到達目標を実現し、30%は独自教育を行なうことが可能。公立学校が3割、私立学校 70割ですが、私立とはいえ無償教育です。プロテスタントとカトリック、自由主義派等のグループがあり、その一部にオルタナティブ教育もあります。

そのうちのひとつ、イエナプラン教育はユニークなことで知られています。4歳・5歳・6歳の子どもたちが、異年齢の小グループをつくり、ひとつの教室の中で過ごします。一斉授業でない、ひとりひとりの学習進度にあわせた教育がどうなされているのかを見てきます。

 いつも思うのですが、6,3,3,4制とか、国語算数理科社会などの授業のカリキュラムの区分け、授業時間や教室のあり方の選定その他、何の根拠があってやっているのでしょう。たまたまそうなった、西欧でやっていたのを持ってきた、などでしょうが、結局自己目的化した受験制度とその通過儀礼を通じた特権、共通の儀式体験としての意味が大きいと思います。

同じ事を体験した、というコミュニケーションツールです。共通の体験、儀式とはこういうことです。

 これはアメリカの高校生の神話的階層構造ですが、ジョックはスポーツ万能の秀才、ギークはオタク、最下層はいじめられっ子です。アメリカの映画ではジョックが悪役でオタクのギークがクイーン・ビーをゲットするというような逆転劇がよく出てきますが、それはハリウッドの脚本家や監督がギーク出身だからで、基本的にこの神話構造は維持されているのです。

日本でも相似した構造が描けますが、これが会社員になった場合どのような変形を加えられるかというのはなかなか面白い研究です。

実際に伝達されていくのはこの物語構造であり、カリキュラムの内容ではなく、競争の形式と儀式なのです。

暴力の正当化としての歴史

暴力論は深い問題で、「いじめられてもいじめる側になるな」と子供にいっても、なかなかそうはいかない問題があります。
歴史の中に自分を位置づけたいというのは誘惑です。しかしそのことがより多くの問題を引き起こしました。

歴史はそもそも勝者の視点から書かれるもので、勝てば官軍だったりします。だから支配者の交代の歴史になるのです。

基本的に強いものが弱いものを守るというのが人類の理想だと思いますが、 実際そうなっているようにはみえません。

シモーヌ・ヴェーユのようにおそらくはこの問題に悩んで餓死で自殺してしまった人もいます。

欧米の暴力の正当化の歴史を真似するからおかしな話になるのだ、ということですが、欧米の正当化のやり方を真似することを力説する人が欧米で抑圧を受けた人だったりします。

ニーチェは弱者のねたみからくる道徳、強者への揚げ足取りを批判しましたが、自然=弱肉強食への回帰からニーチェの考えはファシズムの思想へ流入しました。

歴史というのは全人類が考えたことと行動したことの総和だ、といったのはエンゲルスですが、 こうなるとそれぞれ個別の立場の歴史が打ち消しあって消えてしまうようにさえ思います。


歴史をおおざっぱに段階化したのはヘーゲルでした。原始未開のアフリカ的段階、君主を中心に大規模な公共政策をやるアジア的段階、個々人が自立した西欧的段階です。


ヘーゲルはアフリカ的段階を厳密には歴史の外にあるものとみなし、自然と人間がまみれて区別がつかない状態とみなしています。


日本で西欧的改革、近代国家化、市場化をすすめる場合、アジア的停滞から逃れて西欧的自立個人になろうという改革になります。

しかし自然が絶滅した現在、世代間の対立はある種の合理性からの、制度の不合理性や非合理性に対する批判になっています。

結局ある種のクラスタを設定し、共通の敵を作って攻撃するという燃え上がり方ですが、そこでは歴史はあるクラスタ毎の歴史の再構成になります。












老人と野良猫

 ある日おじいさんが洗濯物を干そうと窓を開けたらやせた見慣れない猫が鳴きついてきた。甘えた猫なで声を出したと思ったらシャーと威嚇してきたのでおじいさんはあきれて窓を閉めた。

またある日おじいさんが買い物に外へ出るとあの猫がまたいた。甘えた声で餌をねだったとおもったら顔を見るとまた威嚇してきた。またおじいさんはあきれてその場を去った。

更にある日またおじいさんが窓を開けると同じ猫が鳴いた。次の日おじいさんは窓の外に餌を置くとしばらくして餌はなくなっていた。

おじいさんが風呂に入っていると、風呂の窓に猫の姿があらわれた。風呂の窓を開けて餌を置くと、猫はくわえて持っていった。

おじいさんが台所で料理をしていると、猫の陰が台所にあらわれた。窓をあけて煮干を差し出すと、またくわえてもっていった。

それから毎日猫は台所の窓に姿を見せた。その度におじいさんは煮干をやった。

ある日猫が増えていた。親の真似をして甘えた猫なで声ばかり上達して、そのあとにすぐ威嚇した。餌をやると腕をのばして爪でひっかけてとろうとするので、おじいさんは手をひっかかれた。しばらく餌をやらなかった。それでも猫はおじいさんの影が見える度に鳴き付いてきた。



しばらくすると増えた猫は大きなオス一匹をのぞいていなくなった。二匹はまた毎日やってきた。

半年ばかりするとまた猫が増えていた。兄弟で固まって餌をもらいに来た。この頃からおじいさんは咳き込むようになった。

おじいさんが猫に餌をやる回数が減っていった。それでも猫は雨の日も雪の日も窓に姿を見せた。

終におじいさんは姿を見せなくなった。それでも猫は窓の前に集まっていた。小さい猫からやせていき次々といなくなっていった。最後に母猫が消え、大きなオスが残ったが、それもいなくなった。

闇金の帝王に話を聞いてみた

彼は高級マンションに住みフェラーリに乗っている。週に3回ゴルフに行き、週末はサッカーをしている。

はじめたきっかけは?

「以前やっていたカジノの流行が終わって店を閉めた。新聞の三行広告でこの道に飛び込んだ。どの裏の業界もバカしかいないから、俺でも絶対トップになれると思った」

具体的にどうやって客を集める?

「名簿を買う。同じような客が被っているのでダイレクトメールを送って連絡を待つ」

客層は?

「固い客が多い。 公務員、大企業の社員などだ」

客はなぜ給料日前に金を必要に?

「女かギャンブルではないか」

返せない客は?

「自殺した客がいる。取立てにいったら子供がでてきて、お父さんは死にましたといった。うそだと思って親を出せといったら、妻が夫は首をつりましたと、うらめしそうにでてきた。警察沙汰になるとまずいので退散した」

「同じ闇金仲間でもうまくいかず妻子がいるのに首をつったのがいる。バカなやつらだ。死ぬことはない」

儲かるのか?

「みてのとおりだ」

家族はいるのか?

「いない。週に三回風俗に行っている。ここ十数年風俗だけだ」

彼は新宿に事務所を持っている。することは主に取り立ての催促電話だ。

ゴルフは金と暇のあるものが強くなるといい、彼は現在負けなしだという。身につけているものは値のはるものばかりのようだが、ロレックスの文字以外、筆者にはわからなかった。

顔はキャバクラに行ったときのためにシワを除去する手術をしているらしい。

ヤクザが出てくることは?

「向こう(金を借りている側)がヤクザを出してこない限りありえない。よくヤクザに裏の業界が仕切られているというが、そんなことは一切ない」

彼は最近賭けマージャンで大負けしたそうだが、「コツコツやってる奴らは馬鹿らしい」といっている。

2014年5月7日水曜日

細川・小泉元首相が社団法人 自然エネルギー推進会議を設立

細川・小泉元首相が脱原発法人=再稼働阻止狙う

政治的課題は首を突っ込むと必ず分断されたどちらかの陣営に所属させられます。一見政治的でない課題もそうです。そうなると自分のやりたいことができなくなります。

しかも自分の意見でもないものの代弁者にさせられ、傷つくのは自分で、何にもならない。

この問題についても客観的にいいます。仮に脱原発を現実にやるとして、自民党が脱原発に舵を切らない限り不可能であるという事態がある。

その可能性として小泉親子の動静が問題になる。

それだけだと思います。

芥川賞作家は廃業する

詩人の荒川洋治さんはラジオでよくこういうネタを語るのですが、芥川賞作家のほとんどが廃業、あるいは転業していて、物書きとして残って食っているのはごくわずか、作家として残っているのは数えるほどしかいない、と言っていました。

荒川さん自身は確か早稲田の講師を学生が白樺派(いや、武田泰淳だったかな)さえ知らないということで限界を感じてやめたとおっしゃってましたが、名のある作家も大学教授としてしか食えなかったりします。

いろいろ考えるのですが荒川さんは個々人の背景にある文化資本というか、親が文学関係だったとか、本人がどこの文学部を出たとか問題にしてましたが、それはインプットまでの問題で、アウトプットと導線の確保が最終的にできないんじゃないかと思います。

 ある程度お客を集めて仕事を積み上げていく、そのサイクルが成立しないのだと思います。
「野ブタ。をプロデュース」というドラマと小説がありましたが、作家をマネタイズという導線がひけるかも知れません。

岡本太郎の「太陽の塔」が超合金3段変形ロボに!

大阪万博の「太陽の塔」が3段変形ロボに! バンダイが超合金40周年記念で商品化

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140507-00000523-san-bus_all

http://tamashii.jp/special/tots_robo/

「6月には「超合金 ハローキティ」も発売する。」日本発のトランスフォーマーなど変形や合体は超進化し、プラモデルとあわせて特殊進化している観のある玩具の世界ですが、戦隊もの、仮面ライダーものやその他キャラクターアニメも玩具の商品展開にあわせて作られていたりします。

玩具メーカーの都合で毎年キャラクターがチェンジしたり、番組が終わったり路線変更したりするのですが、テレビ局の都合とあいまって物語自体が規制を受けていきます。

超合金には一休さんや桃太郎などもありました。

バカ売れしてキャラクターのうち一体を除いて残りすべてが超合金化したのが「がんばれ、ロボコン」です。

世界中にロボットのイマジネーションを撒き散らした日本ですが、今のところ携帯電話の小さなコンピュータ化までで、それらが手足を持って動くまでには至っていません。

コンビニと不況に強いアニメがコラボ

<コンビニ×アニメ>コラボブーム花盛り 不況に強いアニメに熱視線

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140504-00000010-mantan-ent

 内容がうすい記事で三行くらいで言えるのではないかと思うのですが「コンビニ限定でアニメコラボ製品がある」 ということですが、老若男女集うコンビニでオタク系の客層だけを当てにするのはどうか、とあります。

「かわいい」という最大公約数をフックにしているのと同じで、私はそのコンビニのご当地キャラをなければ作り出し、限定で売り出したらどうかと思うのです。

だからイベントもアニメも漫画もその導線も、みなその土地のものにするのです。

すると消費するだけのために外から人が集まってくるか、はたまた内輪のほめあいで消えていくか、賭けになるかと思いますが、私はその場所の固有性がないとこれからの消費は、一回きりの人生の同じような切り売りではなりたたないのではないかと思うのです。

神秘主義はその場、その時、その人を永遠の相に刻もうとしますが、これからそうした神秘主義的消費がもとめられるのではないでしょうか。

日本一の和食:新井薬師 割烹 柾

東大の安冨教授のいう日本一のお店の和食のほうです。
正木さんです。食材のこだわりがものすごいです。
 私は安冨さんの本の世界にのめり込む力は信頼していますが、現実との接点や評価は安冨さんに限らず事実認識が一個ずれると変わってしまい、それは現場に行かないとわからないので学者は話半分です。でも食の評価は間違ってないのではないかと思います。




この日はトマトが出ました。














正直私は写真を撮り忘れてしまいました。カメラを脇に置いて食べていて、画が残っていません。












 私はここで食事というものはのどごし(だけ)ではなく、入ってから出るまでトータルなものだと感じました。ごつごつぶつかってくるものが無いのです。いかに普段の食事がギタギタした味付けに汚染されているかがわかりました。



ここは徹底して調味料から水から素材から自然のものを厳選して料理しています。 私はこの後普通のスーパーで売っているものが腹にまずく感じられ、削り節の講習ブリタなどを買いました(正木さんがブリタを薦めたわけではありません)今も水はろ過して飲んでいます。

2014年5月6日火曜日

GREE役員の夏野氏「妖怪ウォッチ」批判

GREE役員の夏野氏「妖怪ウォッチ」批判 「レア感を煽っている」に「お前が言うな」と猛反発


中毒について

故藤本義一氏が精神病院に体験入院した話の関連で、酒もギャンブルも女も興味ない人が悩んで病気になるケース、というのを挙げていた。


これは当然男の話で、すべての男がこの三つに関心があるというわけではないと思うが、女の場合はどうなるのかと考えたことがある。


酒、ギャンブルあるいは男、となるのだろうが、この場合そんなに数は多くないと思われる。


とすると買い物だろうか。海外旅行に激しく出かけているケースは見たことがあるが、これも限られるだろう。


藤本氏が挙げていたのは詐欺師は自分が間違ってない(騙されるほうが悪い)と思っているということと関連して、まじめに犯罪する人間と、まじめに悩んで入院する人間、という対比を与えていた。


ゲームもギャンブルに似た高揚感を与えるとすると、現実界から疎外された人間の心的表出、ということになり、ままならない現実以下のような階級構造
例:アメリカの高校における階級

からの逃避としてのアニメ、ゲーム、マンガへののめりこみが、ますます現実を変えられず強固にしていくのだろうか。

ホリエモン「面白いのに売れない本には理由がある」

http://dot.asahi.com/wa/2014042300063.html


気になったのは以下のところ。


  「以前にも書いたが、出版社は売り上げ確保のために出版点数をむやみに増やしている。そもそも年に1冊くらいしか売れない本を紙の本で出す社会的意義はない。電子書籍で十分だし、必要ならプリントアウトすればよい。そのほうがずっとコストは安く済む。出版社の資金繰りと著者のエゴが生み出す歪んだ状況というわけだ。」


  思い出すのは「文芸雑誌はみな赤字」ということだ。それではこれは「出版社の資金繰りと著者のエゴが生み出す歪んだ状況」とはもちろん言えない。


  「1冊くらいしか売れない本を紙の本で出す社会的意義」と、これも揚げ足取りになりそうだが、社会的意義と売り上げは違うし、売れない文芸誌を出し続けて文学賞を維持するのはブランドイメージのはずだ。


  ホリエモン自身こういっている。


「書店スペースはお洒落空間なので、いろいろなファッション誌に撮影で貸し出している。」

ホリエモン「書店営業でひらめいた出版の近未来」


「雑貨を取りそろえている書店も面白い。本がラインアップに加わることで文化的な香りがしてくる。」

ホリエモン「書店の未来を考えると楽しくて仕方ないよ」


 本に物質化することの文化的なイメージというものがあるのです。

というか、ほとんどの出版社が自費出版をやっているが、表ざたにしていないのです。これは売るためではなく、まさに本にするために本にしているといえるでしょう。そのことにもホリエモンはふれていません。

自費出版と選挙出馬は定年後の最高の趣味、と読んだことがありますが、定年ではないが名が知れた文化人が自費出版をして表向きはそのことはいわずに出版記念パーティーなどを開いたりしていました。

私的と公的

会社のブログは広報としてやればいいと思います。
個人の場合、人の知らない情報を伝えるという側面があったにしても、なぜ自分がそれに関わったのか、興味をもったのかについてがなければ、共感は得られないと思います。


仲間内や友人、家族相手の場合は、どちらでもありません。



母の日 Mother's Day

スーパーに米を買いに行ったら「母の日」と書いたPOPがあり、ワインやお菓子が安く売ってました。


混んでいてさっさと抜け出したかったのと、高級食材を知っている私としてはスーパーで売っているものは皆おなじに見えるので、安くとにかく食えればいいというものをあれこれ吟味して買うのは馬鹿らしく、お菓子など刺激物で腹を濁すのも騙されているような気がして嫌だったからです。


母の日というのも消費させる言い訳で、バレンタインやホワイトデーの類、クリスマスも誕生日も小学生以来祝っていない私は、興味がない。


かといってその場で若いカップルがあれこれ食品を吟味してましたが、それしか語ることがないのも事実。


スーパーの業態はそのままにしたとして、もっと集う人々が満足して通うことのできる場所の演出はできないものか。


吉本ばななの父親の吉本隆明は病弱な奥さんに代わって自分が買い物に行く機会が多かったせいか、景気対策として「スーパーやコンビニ、百貨店の流通産業に公共投資して買い物客が喜んでいける場所にしろ」と言っていたのを思い出しました。


10キロの米を袋に詰めるのにもごもごして手惑い、通りの邪魔になって客のおばさんに舌打ちされるような状況から脱出しないとまずいだろうと思いました。


生活必需品の供給の役割を担うことから、改善せずとも人は来ますが、来た人がごったがえして乱雑になる。一方人がいないときはガラガラ。機能だけを重視した導線や展示を見直すべきではないでしょうか。法律の問題でもあるのでしょうか。

2014年5月5日月曜日

ふんばろう東日本プロジェクト

震災のときに考えたことを皆忘れようとしています。まるで青春の痛みのように。しかしそれでいのか。あれは被災当事者以外にとってアメリカン・グラフティだったのか。

早稲田大学
これは2011年6月29日。家庭にあるいらない家電を集めて被災地に送るプロジェクトです。

















 朝テントを設営してそなえました。
ふんばろう東日本
 老若男女学生社会人混ざっていました。私は職安通いだったので参加できたのです。


















家電プロジェクト


 このように設営して家電を持ってくる人を受け入れたのです。

















 今思うと他大学の学生もたくさん来ていました。

















 ふんばろう東日本支援プロジェクトです。

















 代表の西條剛央現准教のあいさつ。

















 大隈講堂をのぞむ。


















 受付でこうやって通電をチェックしてたんですね。

















 立て看板をつくって門に持っていった。

















汚れをとって清掃していた。

















 わりと集まってきた。


















テレビ局もきていた。

















 この後何回も会合に参加したのだが、被災地に行く余裕がなく、自分が役に立っている感じが全くなかった。傍観者として、問題を忘れないため、という意識が強かった。この後に被災地支援ファンドの集まりで被災地の事業者の話を聞き、津波の影響で地盤沈下の問題が、かさ上げするか高台移転かで決まっておらず、ゆえに復興がストップしていると聞いた、個別には決めた自治体もあるが、三年たった今も決まってないところがある。

 ボランティア団体ふんばろう東日本ではこれが縁で結婚した人も何組かいた。ここではないが他の場面で私は普通に情報を聞こうと思っているだけなのに、言い寄っていると思われて閉口したことがあった。

 正直に言えば、この時昼食に何人か組で交代で行かされたのだが、この人と行きたいなと思った人とは行けなかった。でも被災ボランティアで来ているのでそういうことは関係ないと思った。その人の姿はその後見ることはなかった。

 婚活のはなしになり「何をしているのか」と問い詰められて困ったことがあった。職業訓練を受ける準備をしていたからで、その後仕事が決まってから聞かれれば答えられたが、そのときは逃げるしかなかった。

 ただここに参加していなければ職業訓練も動画配信の仕事もやらず、被災地支援ファンドのことも知らなかったかも知れない。人にとっては単に余計な回り道で、何にもならない負け犬の道かもしれないが、わたしはこうであるしかなかった。
 
FBもこの団体の必要で始めて、そうでなければ入らなかった。今でもFBは緊急時の連絡網のように思っている。

 ここに参加した人たちのその後の幸せを祈るしかない。


これは早稲田からの帰り道に撮ったもの。たそがれがせまっている。