『人と人は、わかりあえるし、つながれる。でも、「こうすればわかりあえる」「こうなればつながれる」というような、確たる方法や理論は存在しません/名越康文』
これは非常に重要なことをいっているように思います。制度や教育で代替できない、といっているからです。
暗黙知は形式化できず、何をしたらいいというものはない、ということになります。だからコミュニケーション論というものはすべてうそなのです。
ただ、こういうとすべてが負けを覚悟の賭けになってしまいます。
いってもしょうがない、どうせだめだろう、一切期待せずに行動する、結果は偶然まかせになる。
名越氏はこうもいっている『真理の中に感動がなければ、それはまだ真理そのものではない。』
逆に感動だけで真理が無いものが巷にあふれているように感じますが、真理がその人間におとずれるかどうかも偶然になる。
たぶんその人間にとってだけ訪れる真理はそれだけでは真理ではないでしょう。
『だが多数は自分の知った真実を吐き出している。劣化。説得力とは自分が知った真実には拠らない。情報の量や論理の精緻さでもない。いわば、自己洞察的な揺らぎに拠る。』
真理とその人間にとっての真実は別である。
『「人はそれぞれ別の世界を生きている」という事実を知った瞬間に感じた、膝から下が軽く痺れてしまうような孤独感を、一瞬ごとに、初めてそれを知ったかのような新鮮さで感じ続ける/名越康文』
真実はその人間の数だけ存在する。真理はその亀裂に垣間見えるが、それだけでは真理ではない。
やはり、真理は偶然にまかされ、人間は感動のかけらからそれを拾い集めようとしていつも挫かれる。
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