2014年12月30日火曜日

落ち葉拾い

『人と人は、わかりあえるし、つながれる。でも、「こうすればわかりあえる」「こうなればつながれる」というような、確たる方法や理論は存在しません/名越康文』

 
これは非常に重要なことをいっているように思います。制度や教育で代替できない、といっているからです。

  暗黙知は形式化できず、何をしたらいいというものはない、ということになります。だからコミュニケーション論というものはすべてうそなのです。


  ただ、こういうとすべてが負けを覚悟の賭けになってしまいます。


  いってもしょうがない、どうせだめだろう、一切期待せずに行動する、結果は偶然まかせになる。
 
  名越氏はこうもいっている『真理の中に感動がなければ、それはまだ真理そのものではない。』

 逆に感動だけで真理が無いものが巷にあふれているように感じますが、真理がその人間におとずれるかどうかも偶然になる。

 
 たぶんその人間にとってだけ訪れる真理はそれだけでは真理ではないでしょう。

  『だが多数は自分の知った真実を吐き出している。劣化。説得力とは自分が知った真実には拠らない。情報の量や論理の精緻さでもない。いわば、自己洞察的な揺らぎに拠る。』

 
 真理とその人間にとっての真実は別である。

『「人はそれぞれ別の世界を生きている」という事実を知った瞬間に感じた、膝から下が軽く痺れてしまうような孤独感を、一瞬ごとに、初めてそれを知ったかのような新鮮さで感じ続ける/名越康文』

  真実はその人間の数だけ存在する。真理はその亀裂に垣間見えるが、それだけでは真理ではない。

    やはり、真理は偶然にまかされ、人間は感動のかけらからそれを拾い集めようとしていつも挫かれる。

2014年12月28日日曜日

もともと神はゆるキャラだった

はじめに、ゆるキャラがあった、、、。 心の動きと経済の動きが非分離であった原初、宗教的儀礼は経済行為であった。 そこにはなぜかシンボルが必要で、人はそれを神と呼んだ。 神というと強すぎるなら、ゆるキャラといってもいい。 神はもともとゆるキャラとして登場したのだ。

2014年12月6日土曜日

リノベーションまちづくり塾@豊島区第一日

来年、東京で初開催という、「リノベーションスクール@豊島区」(豊島区の遊休不動産のオーナーのみなさまへ~計画対象物件を募集します~あなたの物件が収益を生み まちの魅力を高めます)、の告知的な、そもそもリノベーションとは何で、不動産をどう活用したかの事例紹介であります。

関係ない話ですが、担当と思われる方もふくめて参加者に美人が多かったという気がしましたが、京都から来た不動産関係の人や、これから成功事例物件としてとりあげられた小倉に行くつもりだと話していた人などいて、満員の盛況でした。立ち見もいたのかも知れません。NHKも取材に来ていました。

小倉家守PJ、大田区蒲田の梅屋敷、大田区大森の大森ロッジ、鎌倉のTERACE KONA SURF、北九州市小倉北区魚町商店街の三本屋、水道橋の田中衡機ビルなどでした。

 仔細に述べるのはプライベートにかかわるので省きますが、大体共有の広場やスペースを、住民自身だけでなく町の人にもイベントなどで解放して、そして開放的できれいな空間ができることで町の印象だけでなく人々の意識を変えていくこと、そして家屋やそれにまつわる人々の歴史を、物語を大切にしていくこと、人、場所、時間を、キャスト、ステージ、シナリヲととらえて、家屋やテナント自体から意味を読み取り試行錯誤すること自体も物語としてつくりあげていく、というものですが、不動産に親の世代からかかわっている目利きしかわからない集客や広報、改築の方法などがあるのだろうなあと素人の私は思いました。


開かれた住宅、というのは、山本理顕という人が、 個人と国家の〈間〉を設計せよ第5章「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」(岩波 思想)などとおどろおどろしく語っていますが、コンセプトとしてはずっといわれてきたことです。現在空き家はバブル期の首長記念館以上にかつての前衛的なコンセプトを発揮できるのかも知れません。




2014年11月27日木曜日

性差について

フレンチ・フェミニズムは生物学的性差も文化的につくられたものだと否定する。
多様性といってみたとて、前提には男女という既存の枠組みがあったりする。

そもそも性差とは何か?


男が語った女も、女が語った男も的が外れているように思える。

さらに結婚していようと異性の恋人がいようと子供をつくっていようと、互いを理解しているわけではまったくないということに驚かされる。

だが人間が他人を理解できない、自分も他人から理解されないという一般性ではない。

異性をめぐる緊張感やテンションは存在するからだ。


それを性欲一般に還元しても答えにならない。

性欲とは何かという問題にずらされるだけだ。

生殖のためだと一般化するものはいまい。


この問題は結局誰も答えていないようにみえる。





2014年11月26日水曜日

酒房DT


 男は西新宿のバーのカウンターで注文待ちをしているあいだ、一冊の本を手にとって眺めていた。
 
 その本の表紙には、「アジアを巡る歴史認識」とタイトルがあるのに、表紙を飾る絵はアニメ顔のミニスカ女子高生が描かれている。男は中年。安っぽいスーツの肩にはフケがたまっている。短く刈り上げた頭に細いメタルフレームのメガネをかけ、髭の剃り跡が濃い。

 バーはカウンターに椅子が56席、ボックス席が2つほどあるだけで、いま店を開けたばかりの18時にはまだ他に客はいない。ママは20時からくるのでバイトの女子大学院生が一人いるだけである。

 男は院生がビールをケースから取り出しすために下をむいて腰を曲げている隙に、本を読んでいるふりをして胸の谷間をチェックした。胸はまったくなかった。院生は色白で髪の毛を無造作に上げており、特徴のない顔だった。男にとっては女が有名大学の院生であるということと、自分より若いということに意味があった。

 男が他に人のいない早い時間帯にバーに来たのはこの女目当てだった。男は自分が歴史の問題に興味のあることをひけらかそうとして、そしてアニメ顔の女子高生の絵なら自分より若い女の気をひくだろうと思って、カウンターに座って本をわざとらしく広げているのだった。

 女は反応しない。横顔を男にみせながら、少し口を開けたまま何か黙々と作業している。男が女の口元をよくみると、前歯が2本だけ飛び出していた。男は自分が飼っているハムスターを思い出して、「ハムスターみたいで可愛いね」というほめ言葉を思いついたが、沈黙を破って何かしゃべりだす勇気がもてなかった。こうして時間をつぶしているうちに誰か客が来てしまうかも知れない。次々と客が来たら、閉店まで何も話しかけられないかもしれない。いつも男はそうして無駄に金と時間をつぶしてきたのだった。

 「あの・・・・」と男が言い出しかけると、女はちらりと顔を上げて男のほうに目を向けた。男はどっきりして二の句が告げなくなった。女は忙しいらしくまた下を向いてなにかやっている。

 一瞬顔を上げた女をあらためてよくみると、化粧はまったくしておらず、TシャツにGパンの女っ気のまったく無い格好だった。華奢な体つきと髪の毛ぐらいしか女であると判別できる要素がない。

 男は沈黙に耐えられなくなって女が出したビールを飲んでお通しに手をつける。

 「きゃっ!」と女が急に飛び上がる。「どうしたの?」
 
 「ネズミ・・・」
 
 男は「ネズミに似てるのに怖いんだ?」と冗談をいおうと思ったがいわなかった。
 
 「この前もネズミが出たの」

 女は気が動転したのか急に饒舌になった。
 
 「ネズミそんなに怖いの?」
 
 「ネズミ怖いからこのお店やめようかな・・・」
 
 「ネズミ可愛いじゃない。ミッキーマウスとか」
 
 「おうちでは猫を飼っているからネズミは出ないの」
 
 「最近の猫ネズミとらないでしょう?店で猫飼うわけにはいかないしなあ」

 男は話を引き伸ばそうと酒をあおりながら言葉を重ねる。女に酒をすすめるとあっさり飲んだ。
 
 「いただきます」
 
 女は酒に強いようで結構飲んだ。外は雨が降りだし、未だ次の客は来ない。

 かみ合わない会話のまま、男は他に客が来ないこの店のカモにされたようだった。女に酒をすすめて二人でどんどん飲んだ。酔った勢いで歴史のうんちく自慢や、女がネズミに似ていることなど、思いついたことを全部しゃべってしまった。女は適当にあいづちを打ち、なんにでもあてはまるようなあいまいな返事をしていた。

 突然後ろからガタン!と扉を開ける音がして男はビクッとした。次の客が店に入ってきた。
  
 「いらっしゃいませ」
 
 男はあせった。次の客はまずトイレに向かった。男はチャンスと思って女に連絡先を聞いた。酔いと焦りが後押しした犯行だった。女はあっさり手早く伝票用紙をちぎってボールペンで何か書き込むと、男に渡した。男はすばやくその紙をポケットに入れると、金を払って店からあわてて退出した。
 
 男はかなり飲んでしまい、自宅への帰り道は覚えていなかった。翌朝男が起床して、女からもらった紙を開いてみると、「死ね」と書いてあった。

2014年11月18日火曜日

高円寺の国津神はなにか

高円寺の国津神はなにかhttp://kouenji.biz/chara/

ということで、ゆるキャラ作りをネタにして高円寺に取材にいってきました。題材は高円寺という地名、川、神社などです。以下が私が絵は稚拙ながらアイデアとして出した高円寺桃園姫です。高円寺の名前の元になった宿鳳山高円寺とそこに祀られていたという桃園観音、 そこを流れていた今は緑道となっている桃があったという桃園川をイメージし た。高円寺の「高円」を月とみたてた。桃から出たかぐや姫のイメージ。



ネタにしたのはまず高円寺氷川神社です。




気象神社というのがあり気象予報士の資格受験の願掛けとかしてあります。源氏が由来の一つとされています。駅の近くなので邪気がそこから漂ってきますが、清浄な雰囲気はありました。次は地名の由来の高円寺です。氷川神社から行ったので、西の墓地から入りました。



門前の商店街も含めてここは高円寺の中心だな、と思いました。この裏に桃園川というのが昔流れていて、桃があったそうです。今は中野に続く緑道になっています。もともと桃園観音というのがあったそうです。この「桃園観音」を復活させて桃の木を植樹し、緑道を下水から川に戻せばいいのです。

大久保通り沿いのここを抜けていって高円寺天祖神社に行きます。字小沢の鎮守で、伊勢から勧進した神明社だったそうです。北の氷川神社、南の神明社だったようです。こちらのほうが古いようですが、氷川神社に比べて雑然としていました。どちらかの神社は高円寺と一体だったのが神仏分離令で切り離されたようです。



これで終わりかと思いきや、大久保通り沿いに中野に向かうと稲荷がありました。


この大久保通りを直交する小道はニコニコ商店街と名づけられていますが、古くからあった通りとあります。高円寺近辺の古地図にはあったかなあなどと思いました。

2014年11月17日月曜日

まちのトレジャーハンティング@豊島区 報告会〜トークライブ

豊島区についてはその地名がこの土地と直接は関係ないこと、池袋の地名にまつわる新説、鬼子母神の祭りなどについてこれまで書いてきました。

今回いろいろなアイデアが出されたのですが、これまで私が述べてきた日本全体における基本的な位置を重ね合わせてみます。

くりかえしになりますが、水とエネルギーを含めた衣食住の再生産をある生態的な圏域で可能にしていくこと、これが地球上での限界経済、人類の生存経済の要であります。

その場合日本で必要なのはその土地の神々をシンボルとして再生させることです。

ゆるキャラや妖怪にその萌芽は現れていますが、土地と関連させたものとしては古事記における国津神と天津神(現在は天皇)の関係において国津神を復興させることです。

雑司が谷でいうなら鬼子母神という神がはっきりとありますが、豊島全体でいうと、巣鴨が中心でその要は十羅刹女、今の大塚天祖神社であることはすでに述べました。

豊島区を構成する巣鴨村、池袋村、雑司が谷村、高田村、目白村、長崎村、新田堀の内村 などのうち一番栄えていたのが雑司が谷の鬼子母神、巣鴨の十羅刹女となります。

神仏分離令で廃仏毀釈されましたが、戦国時代より仏教が天津神的位置におり、国津神が感化されたものと考えることができます。

さてこれは宗教的解釈を対立させるとやっかいですが、人類学的、神話的表象とみなすことができます。

十羅刹の復興および鬼子母神のブランチとして吉多明神を復興させることを提案するものです。


2014年11月13日木曜日

恐怖


 雨の中、閉まり始めた踏み切りの前で、傘をさしながら電車が通り過ぎるのを待っていると、踏み切りの真ん中にくしゃくしゃになったかたまりが見えた。

 ここは魔の踏み切りで、一度閉まるとなかなか開かない。私はしばらくその物体をながめることになった。2、3回電車をやり過ごすと踏み切りがやっと開いた。私は線路を渡って物体に近づくが、途中で再び踏切が鳴り始めた。あわてて横断しようと小走りに渡ってますます物体に近づいていくと、何とそれは真っ二つになった猫だった。

 半分ミイラ化していて、花が数本死骸の上に添えてある。誰かが轢かれた猫の死体をわざわざ運んで通路の真ん中に置いたとみられる。頭がおかしい者の犯行か。振り返ると後ろから線路を渡ろうとしている小学生の女の子。私はすばやく傘を閉じてその先端で死骸をどかして線路の脇の草むらに放り込んだ。傘の先端についた泥のような死肉の一部を、道路の表面のアスファルトでこすってけずり落とそうとしたが、うまくとれない。仕方なく中途半端に汚れがついたまま、傘をさしなおして踏み切りを渡った。
 
 仕事の帰りに、終電が終わって開いたままになっている踏み切りに戻ってきた。するとまた昼間見たあの塊のようなものが前方の視界に入ってきた。嫌な予感がした。近づいてみるとあの猫の屍骸だった。わざわざ通り道の中心に戻してある上に、また花がちりばめてある。気持ちが悪くなってこんどは遠くまで死骸を飛ばして、容易にみつからないようにした。一体誰がやっているのだろう。小中学生のいたずらか、狂った中高年か。もし三度目があったら警察に言おう。

 次の日の朝、カラスの声がうるさいので何だと、ドアを開けて家の外に出た。すると、同じ死骸が家の前にほうり投げてある。「なんだこれは・・・」誰がなんの嫌がらせでやっているのだ。動物の仕業だろうか。それにしても、見つからないように放り捨てたあの死骸を見つけ出せるのはおかしい。箒でゴミ袋に放り込んで、出勤するついでにゴミに出した。

 仕事から自宅へ帰ると今度は死骸がポストに放り込んであった。ゴミ収集車がもっていったかどうかまでは確認できなかったが、袋は外から何が入っているかわからないようにしたはずだった。
 死骸のゴミだしを監視できる場所は近所の家か、近くのマンションか。疑心暗鬼におそわれる。監視カメラを設置することにして、死骸はわざわざ家から離れたコンビニのゴミ収集箱にいれさせてもらった。コンビニまでの途中の路はあとをつけられないように用心したので、どこに捨てたかは見られていないはずだ。

 次はさすがに死体はどこにもなかった。ただ死体にかけられていた枯れた花と同じものが家の前に散らばっていた。設置した監視カメラに映っていたのは、以前家の付近で路上駐車を注意した小太りの中年の男だった。やつはどこに住んでいるのか。どこからこちらを見ているのか。警察に通報してまもなく、男は捕まった。やはりマンションに住んでいた。その後男は引っ越して、二度と同じことは起こらなかった。
 
 事件の数年後、投石で家の窓ガラスが壊された。そして外出して気がつくと、線路の真ん中に茶色い物体が落ちていた。




2014年10月2日木曜日

自分の頭型ロボット

RTを通りすがりに拾った。


https://twitter.com/May_Roma/status/517256868440576000


竹田氏を好む人々の教養レベルと情報咀嚼力がよくわかるが、実は重要な示唆がある。彼らが理解できる教養はこの程度であり、思考は単純。情報量も少なくしなければいけない。RT : “俗物”竹田恒泰の教養の浅さがヒドい


https://twitter.com/May_Roma/status/517257778319335424


なんだかんだ言って竹田氏の本は売れている。大学教養程度の歴史や政治経済の知識がある人ならおかしいとわかるが、そのぐらいの教養がある人の方が実は少 数派ということだ。大半の人々は中学二年生程度の教養しかなく、思考も単純なため、めちゃくちゃなことを説く右派論客に騙される


https://twitter.com/May_Roma/status/517258702941065216


そしてその様な人々は物事の単純化を好む。単純でなければ理解できないからである。情報咀嚼力がない沢山の情報は理解できない。さらに自分の頭では考えな いため、単純化された強いメッセージを好む。誰かに指導されたいからだ。自分の頭で考えないため肩書きや権威も大好きである。


ここまでくると落ちがおなじなので
何が自分の頭なのかわからなくなる
自分とか自分の頭というのはなにか
おなじ自分の頭で考えろという
 同じ言葉が機械的に繰り返されて終わる
 ロボットのように

2014年9月26日金曜日

愛のないセックスとセックスのない愛

六本木リバ邸での昨日のセッションでの話で承認欲求という言葉と、男女の性差で男の役割が階層的に役割にはまっているという話が出た。

私個人は自分が納得できればよいので承認欲求というのはいらないと考えていた。さらにみな個人というものがまずあって、そこから自分の考えなりや主体が連合して社会があると考えているようにもみえた。

私はそういうものはないと考えていて、そういうものがあるかのように教育させられる、という考えに傾いている。そしてそういう単位を設定する社会学や心理学、教育学が仮説をいつの間にか実体化するのだ。

さらに男女の性差、ジェンダーやセクシュアリティの問題だが、西欧のフェミニストには生物学的性差さえ否定するものがいる。男女の性役割は文化的なものだとするのだ。

そこではいわゆる母性は神話になる。

東大の安冨教授は親から子へのハラスメントと、その隠蔽、そして結婚におけるスペック重視の立場主義による愛のないセックスとそこから生まれる子供、という問題をたてている。

この問題の射程は大きい。愛のないセックスなどといってしまえば、性風俗をめぐる、あらゆる産業や表現は、その類に入ってしまうからだ。

安冨教授はマイケルジャクソンの死の睡眠薬の過剰摂取も、父親の虐待は客観視できたが母親のそれを見ることができなかったためではないかとしている。

愛とはなにか、人間における性欲とはなにか、動物とはなにか、問いは果てしなく広がる。


六本木ヒルズ森タワー29階YouTubeSpaceTokyo&sessions the13thリバ邸六本木

六本木ヒルズ森タワー29階Youtubespacetokyo に行ってきました。

30階で降りて階段で29階に行こうとしたら締め出されて、たまたま出入りの業者さんに助けてもらいましたが危ういところでした。グーグル本社と合体しているようですが、気をつけましょう。あせりました。




 世界でロンドン、ロサンゼルスについで三つ目で、ニューヨークが次にできるそうです。

 動画アクセスのアナリシスについての話が主で、19時半までの予定が延びたので、途中退出せざるを得ませんでした。

 アナリシスは調べるか見てればわかる、あるいは聞いても忘れるので、動画製作の本質とは別のようでもあり、「コミュニティ~家族でも学校でも会社でもないサードプレイスを作るには~」sessions the13thリバ邸六本木、のほうへ向かいました。

 道に迷った上に、何号室かわからず、外に何も標識もないのでここもたまたま住人の方が外で何かやってなかったら入れませんでした。

 森タワーで迷い、ここでも迷う。もともと変な熱があって気持ち悪かったのですが、汗がどっと出ました。

 第三の(新しい)公共性、と鳩山政権がいってました。震災後も模索が続きました。私は歴史の軸が必要だと思いました。とかいって神社とか回って疲弊しました。

  昔読んだようなことを思い出して話してみましたが、私のいいたいことは結局場所の共同幻想とか集合無意識と資本の関係であるようでした。

  場所の文化資本論を精神的なものを含めて提起したいのですが、オタクみたいな話はしてもしょうがないようにも思いました。

 魂の脱植民地化、と里山資本主義が東大の安冨先生がいっているようなことですが、たとえば動画は分析より個々人のカウンセリングによって世界を広げて創造性に働きかけたほうがよく、物的なものや分析は結果であろう。

 アンソニー・ギデンズ『第三の道――効率と公正の新たな同盟』というのがありましたが、私自身はコミュニティとか教育とか社会という概念自体どうどうめぐりをするように作られていて、既存のものをなぞってヒエラルヒーを現実として再確認させられるようなものだと思っています。

この「新たな概念を生み出す」ということですが、このイベント主催のいちじくさんは、「ただ語るだけでは生産性がない」といわれたとのことですが、教育とは労働者の生産なのか、教育サービスの消費なのか、知識とは何で、それは生産と消費があるが、要するに語りが新たな知識を生み出せば、それが生産なのでしょう。

2014年9月14日日曜日

類人猿診断

精神科医名越康文さんの5つの質問に答えるだけの性格分析、

類人猿診断です。 http://yakan-hiko.com/gather/

「僕は長年、性格分類をライフワークとしてきましたが、この類人猿分類の最大の特徴は、分類数が4つと少ないこと。分類数の少なさは会社や学校、スポーツチームなど、実際の組織運営に性格分類の考え方を取り入れる場合に実用的です。また、実際の類人猿の行動傾向にもそれぞれ興味深いエピソードがあり、学べば学ぶほど味わい深い性格分類です。ぜひ楽しみながら、皆さんの日常に取り入れてみてください」(名越康文)
とあります。

 私は「職人気質のこだわり屋、オランウータン」でした。

以下そのまま引用


「納得しないと、やりたくありません」
オランウータンは、個人主義の職人タイプ。

 「物 事のしくみを把握したい」という欲求が強く、何事に対してもまずは物事を自分の頭で考えるのが大好きです。他人からの評価はほとんど意に介さず、自分が興 味を持てれば仕事でも趣味でも、どんどん積極的に取り組みます。独自の切り口で、オリジナリティの高いものを生み出すことの多いタイプです。

 仕 事でもプライベートでも、オランウータンが生み出す物は、チンパンジーやボノボ、ゴリラから称賛を浴びることも少なくありません。しかし、オランウータン が求めているのは周囲からの評価ではなく、「納得」です。何をやるにしても、自分自身が納得できないと、一気にモチベーションが落ちてやる気を失ってしま います。また、あまり感情を表に出さないため、周囲の人からは「何を考えているのかわかりにくい」と思われてしまうことも少なくありません。


「あんまりみんなから好かれようとは思ってないんで」
 オ ランウータンも人づきあいをしないわけではありませんが、その前提には「個人」があります。当然、集団行動は苦手。元気いっぱいで常に社交的なチンパン ジーや感情表現豊かなボノボからは「人づきあいのできない人だ」と思われているかもしれませんし、組織に従順なゴリラからは「変わった人」と警戒されてい るかもしれません。

 ただ、そもそもあまり周囲を見ていないオランウータンは、そういう周囲からの「白い目」は気に留めません。褒められても貶されてもあまり意に介さず、マイペースを保って過ごすのが、オランウータンの特徴です。

4つの力が チームを動かす
13期連続2桁増収、6期連続増益。
急成長する食品スーパー「エブリイ」。
従業員の個性を活かす人事の秘密はネットで話題の「類人猿分類」だった! 
ゴリラの冷や汗

2014年9月13日土曜日

イケダハヤト×坂爪圭吾特別対談!「東京一極集中から地方分散へ!地方と僕らの未来はこんなに面白い!」sessions the 12th (9/13 10:30〜@高円寺こけむさズ)

イケダハヤト×坂爪圭吾特別対談!「東京一極集中から地方分散へ!地方と僕らの未来はこんなに面白い!」sessions the 12th (9/13 10:30〜@高円寺こけむさズ)

イベントレビューですが体力がないのと書き方を忘れていてリハビリ文章です。

私は場所ということで歴史の軸をどういれて自治体の統治をするか、資本と学習をどうアレンジするかというテーマを掲げているのですが、そこで一番古いものの類である神社や寺に注目し、シンボルとして以上に実質的に何か動かせないか考えていたのですが、最近は東京の神社には悪霊しかおらず、神はいないという話を聞き、実際自分も取材しているうちに身体が衰弱してきたので、東京は無理だ、と思うようになりました。

そこで『日本の聖地ベスト100』などを読んでみたりしたのですが、もうやる気がなくなってしまいました。

この前動物園に十数年ぶりに行ってきて、疲れた動物にそれでもわずかにパワーを感じたのですが、野生は都会になくなり性欲の残骸が偽の自然として巻き散らかされている。

前置きが長くなりましたが、お二人のお話でイケダさんはだんだんスピリチュアルな傾向になってきているとおっしゃってましたが、自然の力と土地の神は比例しているのではないかと思いました。

神社の話など聞いてみたかったのですが、自分が郊外に脱出する気力がないので、すこし気が引けて積極的になれませんでした。

会場のフリースペースこけむさズの入り口のはしっこの片隅に水ゴケのような小さいプラスチックの水槽がありましたが、都会の閉じ込められた自然、気力が弱り広い判断ができなくなる人間、そういうことを想起しました。

2014年8月27日水曜日

セミの鳴き声、夏の残響

夏風邪をひき一週間寝込んだ。

何も食べられなかったのでリハビリに深夜散歩することにした。

通りがかった公園の路でセミが落ちてあばれている。

セミがある公園とない公園、ある街路樹とない街路樹、

 少なくとも7年以上その木が植えられている場所とそうでないところの差だ。

整備工事で根こそぎ植え替えたり殺虫剤、除草剤をまいたりしたところはセミが鳴かない。

それでも7年以上その木が根付いている場所がある。

そのマイナーなそれでも短くはない樹木の 歴史の差を、

セミの鳴き声は物語っている。

2014年7月26日土曜日

好調なのは「アナ雪」だけ…出版物販売額が激減

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140725-00050106-yom-ent

自分の実感だといわゆる売れている本には活字の大きさや段組、紙質で五分の一以上に圧縮できる本が多すぎて、かさばるではないかと思います。邪魔なのです。

雑誌はまさに雑誌で、雑なだけで意味がない。

かといってネット上、電子書籍上ではなく紙の活字としてしか読めないもの、歯が立たないようなものというのもあります。

それがどういうものかは私が企画した本で明かします。





恋の生まれる街に 豊島区100人女子会 注文相次ぐ

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014072002000110.html

『「豊島区に住みたくなるためには何があったらいいか」というテーマについて意見を交わした。 「恋の生まれる街」「欲張り幕の内弁当な豊島区」など思い思いのキャッチフレーズをまとめた。

「家族で住むには家賃が高すぎる」「緑が多く落ち着いた公園が必要」「働いている女性は時間がない。区は企業にワークライフバランスを実現できるよう働き掛けて」。』

これらの意見には豊島区の独自性がまったくありません。他区でも同じような話で、豊島区の独自性がまったくないところが、それを感じることができない豊島区消滅の理由にさえ感じさせます。

 池袋にふれた意見、


『「池袋の脱法ハーブの事故などで、豊島区は治安が悪いイメージがある。まず安心して暮らせるようにしてほしい」。

「池袋は女性にアニメの街として人気だけれども、それよりも、実際に住んでもらうためには、安心して子どもを預けられる環境と情報が欠かせない」』

前者は池袋でたまたま起きただけであり、後者は腐女子の「やおい」であって、しかも前段と後半が何の関係もありません。

結局豊島区だから、という理由と原因が何も明らかにならず消え去ってゆく予兆を感じさせます。私は増えている世田谷区と比較するために取材しているのです。



2014年7月21日月曜日

高円寺のゆるキャラ募集

http://kouenji.biz/chara/

ということで、高円寺に取材にいってきました。
高円寺という地名、川、神社などです。

まず高円寺氷川神社です。




気象神社というのがあり気象予報士の資格受験の願掛けとかしてあります。源氏が由来の一つとされています。駅の近くなので邪気がそこから漂ってきますが、清浄な雰囲気はありました。次は地名の由来の高円寺です。氷川神社から行ったので、西の墓地から入りました。



門前の商店街も含めてここは高円寺の中心だな、と思いました。この裏に桃園川というのが昔流れていて、桃があったそうです。今は中野に続く緑道になっています。もともと桃園観音というのがあったそうです。

大久保通り沿いのここを抜けていって高円寺天祖神社に行きます。字小沢の鎮守で、伊勢から勧進した神明社だったそうです。北の氷川神社、南の神明社だったようです。



これで終わりかと思いきや、大久保通り沿いに中野に向かうと稲荷がありました。


この大久保通りを直交する小道はニコニコ商店街と名づけられていますが、古くからあったとおりとあります。高円寺近辺の古地図はあったかなあなどと思いました。
ここで私が思ったゆるキャラは次に書きます。

よい教育ってなんだろう猪熊弘子准教授×保坂展人世田谷区長対談

 http://www.youtube.com/watch?v=MXngtVqn7sY

唯一人口が増大している世田谷区ですが、保坂区長は欧州の教育制度の視察に行き、いろいろ考えるところもあると思うので、話を聞きにいきました。

場所は等々力でしたが、子連れ可とのことで小さい子が多く遊びまわって保育所のようでしたが、泣いたり跳ねたりしている子供たちは知ってか知らずか、主に若いお母さんたちの悩みは深刻なものもあるようでした。

よい学校、会社、収入といったものへの渇望から、早期教育や様々な方法、公文式、七田式、横峰式、などの区長の教育ジャーナリスト時代の経験や、オランダは親が200人集まると保育所をつくらななければならないということや、同じ年齢でも個々人やっている学習計画が学校でも違う、卒業試験が受かれば大学に入れる、などの具体的な話がありました。

猪熊さんは教育基本法とか児童の人権の問題とからめていたようでした。


自主保育というのがあり、待機児童として保育園や幼稚園に入れないというのとはまた別の、ただ共働きだと難しいという話に対しては食費しかほとんどかからないという話、自主保育だからといって学校に行った後、教育学習的に困ることはとくにない、という発言が参加者のお母さんから出ました。

幼稚園、保育園、自主保育のお母さんたちの交流がない、とも。


私の関心は6,3,3,4制とか国語算数理科社会などのカリキュラムが本当にこれでいいのか、教えられた内容と学校の外の世界とどこまで関係あるのか、 なのですが、区長も偏差値教育や有名大学という制度はこれからも変わらないだろうが、これだけがすべてだと思ってはいけない、と自身が中学を2年でやめた経験からおっしゃっていました。


私は大学受験選抜というのは教会のようなものであり、仮に中で伝達されているカリキュラムがそれ自体外で何の意味もなくても、資格化された儀礼なのでそうしたものとして慣習化され伝授されていくと思いますが、自主保育が自主教育にまで達するならば、本来生存のために必要な生産はなにかという視点から経済そのもの、環境そのものを親自身が人類としてとらえなおす必要があると思いますが、世田谷がベットタウンであり、ゾーニングされた地域で生産経済活動は他の地域で、消費生活は世田谷でという分離状態から規定される思考停止が存在するのではないかと勝手に思いました。
 

 これはどの地域でもいえることですが、大きい産業構造の規定が、その現実が所与のものになってしまい住民のエネルギーをそこで止めてしまうようにも思えます。

ここで世田谷基本計画の絵本式のパンフレットをもらいました。次はそれについて書いてみたいと思います。

2014年7月18日金曜日

世田谷美術館ジャポニズム展

ものが古いため強い照明を落としているのか、館内が暗く、展示物が小さいのでよく見えない。

平日でも人が多く、一々音声案内の機械をレンタルした観客が展示物の前で立ち止まるので、行列が流れない。

浮世絵版画など日本の作品に比して、西欧のものが単なる模倣に終わっていて、とても日本のものを受け止めているとはいいがたく、また照明が暗すぎてよくみえない。

等々の理由から、いかなくてよいと判断した。画集を借りれば足るだろう。

ショップも工夫が足りないものばかり売っていて、館員も少なくとも一人はホスピタリティがまったくなかった 。


2014年7月17日木曜日

小保方氏ら博士論文問題

この問題に関して以下のツィートを見ました

大学なんて全部コピぺだとおもいます。学校そのものがそうでしょう。

総体的に早稲田が没落することはありえません。そんなんで没落するなら、とうに没落している。この問題に大学教師が騒ぐのは、ようするに大学どうしの争いにすぎない 。

2014年6月16日月曜日

PlaceUniversity

https://www.youtube.com/PlaceUniversity https://www.youtube.com/PlaceUniversity/videos

2014年6月8日日曜日

吉本隆明「共同幻想論」からみた場所の再生

私は吉本ばななさんの父親で思想家の吉本隆明さんについて論文を雑誌に連載していて、一方で吉本隆明についての研究会の動画を自分のサイトにアップしてます。 これは吉本さんの主著ですが、私はこれを作るのにかかわったこともあってこの本を5、6回通しで読んでいるのは世界で僕ともう一人だけだと思います。 これはいいちこという大分県の三和酒造のPR誌で、メセナ大賞をとったものですが、この編集を任されている山本哲士さんという人がそうなのですが、この人の国津神論 古事記の逆立解読 という本があります。 古事記は日本書紀と違い、出雲の大国主の命を中心に、日向に天孫降臨した天皇家の天津神側と出雲をはじめとする土着の国津神たちとの調停、結婚、戦争、などなどが描かれています。 そして天皇家の皇祖神といわれるアマテラスなどは大和から追い出されて伊勢津彦といれかわりに伊勢に来ます。 ここにおける天津神は、国津神の連合の調停役、采配者としてあり、多様な日本の国の神々を横に繋ぐ役としての儀礼の王だといえます。 これは日本書紀になるとすべて親子関係になってしまいますが、もともと古事記には場所の多元性がそのまま描かれているのです。 土佐風土記の時代から古事記、日本書紀を経て、律令制をこえて戦国時代に場所の成熟が開花します。 小田原北条氏がやられなかったら日本はスイスのような連邦制になっていたでしょう。 秀吉の統一、朝鮮出兵、江戸幕府による藩主のお国替え、さらには参勤交代によって場所の力はそぎ落とされます。 明治以降天皇が伊勢神宮に参拝し、廃仏毀釈、神仏分離令、神社合祀令によっていまだ残っていたその土地の神々、場所の神社がつぶされていき、すべてアマテラスの天祖神社に配置換えされていきます。 明治以降場所の力が喪失されていくなかで、日本民俗学を創始し失われていく民俗をもとめた柳田国男と折口信夫の著書の中から土佐にまつわる記述を拾ってみました。 自分の空想は峠会というものを組織し、山岳会の向うを張り、夏季休暇には徽章か何かをつけて珍しい峠を越え、 たわ たをり たを 内海を渡って四国へ入れば「たを」とは言わずに「とう」と呼ぶけれども、 土佐の国中から穴内川の渓へ越える繁藤に、 豆の葉と太陽 白山茶花 十一月に土佐の西部を旅行して、窪川の高原に入ってみると、ここに再び数えきれぬほどの純白の山茶花を見、それが断続して幡多の村々から、伊予路に及んでいることを知ったのである。 物部麻呂 石上乙麻呂 言祝ぎ 物の哀れ 日本の國の昔に残る所の物の哀れを知って 海に流され 海部が語り 言祝ぎ人 ほがいびと かっぱ 土佐國 玉嶋 (釋日本紀 卷第十) 土左の國の風土記に曰はく、吾川の郡。玉嶋。或る説(つたへ)に曰へらく、神功皇后、國巡りましし時、御船泊てき。皇后(おほきさき)、嶋に下りて磯際に休息(いこ)ひまし、一つの白き石を得たまひき。團(まろ)きこと鶏卵(とりのこ)の如し。皇后、御掌(みたなぞこ)に安(お)きたまふに、光明(ひかり)四もに出(さしい)でき。皇后、大く喜びて左右(もとこびと)に詔りたまひしく、「是は海神(わたつみ)の賜へる白眞珠(しらまたま)なり」とのりたまひき。故、嶋の名と為す。云々。 (今井似閑採択) 土左高賀茂神社 (釋日本紀 卷第十二・十五) 土左の國の風土記に曰はく、土左の郡。郡家の西に去ること四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖(おや)は詳かならず。一説(あるつたへ)に曰へらく、大穴六道尊(おほなむぢのみこと)のみ子、味?高彦根尊(あぢすきたかひこねのみこと)なりといへり。 (今井似閑採択) 朝倉神社 (釋日本紀 卷第十四) 土左の國の風土記に曰はく、土左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。神のみ名は天津羽羽(あまつはは)の神なり。天石帆別(あまのいはほわけ)の神、天石門別(あまのいはとわけ)の神のみ子なり。 (今井似閑採択) 神河 (萬葉集註釋 卷第一) 土左の國の風土記に曰はく、神河(みわがは)。三輪川と訓(よ)む。源は北の山の中より出でて、伊與の國に届(いた)る。水淸し。故、大神の為に酒醸(か)むに、此の河の水を用ゐる。故、河の名と為す。 (今井似閑採択) 物部川 物部村 いざなぎ流 神ーモノ 土佐刃物 紙漉き 場所の共同幻想としての神からモノを引き出す技術がある 文化技術 土佐なら土佐文化圏というものを想定して統一的に理解して復興させるために神を考える。 客観的社会物理学と主観的人間学 その場所固有の共同幻想が文化の根源であり、技術はそこから派生してもたらされる 土佐の文化圏というものが想定され、それを場所の共同幻想として復興させる、というのが僕のアウトラインです。

2014年6月3日火曜日

天皇が伊勢神宮をお参りし始めたのは明治天皇以降だった!

これが事実かどうかは自分で調べてないので保留しますが、奈良(大和)からアマテラスは追い出されて伊勢に入れ替わりで入ったことは確かです。 だから奈良にはアマテラスは祀られていません。 要するにこれは場所の多様性、多元性を古事記はあらわしているということであって、それを一元化して強調しようとしたのが明治政府であったことも確かです。

2014年6月2日月曜日

世田谷区の概要

人口88万人。福井県、高知県、山梨県その他より人口が多い。区の職員数5千人。割ると176人の住民に1人の職員なので、44世帯に1人、区の職員が割り当てられていることになる。5歳以下の人口は増大しているが、区外からの流入というより第2子、3子が多いようだ。


2014年6月1日日曜日

世田谷区長政策提言ワークショップ

世田谷区長ワークショップの報告ではなく、前もっての感想。報告は間がおいたら書きます。

いつもの私のやり方だが、北沢、砧、玉川、世田谷、烏山のそれぞれのおそらくは旧大字、さらにはその下位区分である字27箇所にもあてはまるとおもうが、個別に中心となる神社があった、あるはずであり、その土地の神がいる。

そうした幻想領域の話はどこでも普通出ない。私に言わせればマルクス主義とおなじ物的決定論で、なんらかの対象を物理的に設定して、その操作で物事を語ろうとするやりかたが社会学などをかじると汚染されて入ってくるからだ。

こうした大学やその界隈の出版、行政、あるいは企業に暗黙のマルクス主義が入り込み、まったく政策に人間の世界は入ってこなくなる。

これは地方などもまったくおなじだ。機能主義で語ろうとするから何も現実を変えられなくなる。

2014年5月31日土曜日

テルマエ・ロマエ:銭湯維持に8億円


実際にお風呂がなくて困っている人たちを助ける他にも、 ・地域コミュニティとしての役割 ・伝統文化としての継承 などがその予算担保の理由
とありますが、地域コミュニティ、伝統文化といった言葉が形骸化して何を指しているかわからなくなっているからというべきでしょう。

 両方を本当に考えるなら、今のままの施設で本当によいのかを考える必要がある。

 資生堂の福原名誉会長は日本のホスピタリティの例として、見ず知らずのものが裸で入浴する銭湯をあげており、観光客人気としては蛇骨湯などが浅草にあるため繁盛しているようですが、ほとんどは閑散としている。

銭湯に限らず、地域コミュニティ、伝統文化という言葉が使われているところはどこでも危ういのではないでしょうか。

ただ、こうした考えの本丸は寺社でしょう。 これは相当危うい問題を引き起こします。

2014年5月30日金曜日

恋愛とはセフレの言い訳

そして入籍とはセフレ奴隷の誤魔化し

金がない人間は必死

というか、詐欺を生業にしてしまったものがそれを自立と言い張り、詐欺の工夫を延々と続けるというケースがありすぎて資本主義の終わりを感じることが多い。

2014年5月25日日曜日

理論的綜合:吉本、ラカン、フーコー

フーコーもラカンもコミュニケーション言語を問題にしているとはとりあえずいえるのだが、ラカンのシニフィアン理論はそうとはいえない。ただそれは失敗に基づく固着であり、傷であるため、コミュニケーションが前提になっていないわけではない。

吉本の場合はただコミュニケーションの機能的言語に対置して文学的美の領域があるとしただけで、積極的のようで消極的な規定である。

それはただ自由の領域を規定しただけにみえる。

そこにおける幻想性の領域において考えるなら、社会、経済、技術的な枠組みは共同の次元の問題であり、個人とは峻別される。


理論的反人間主義

60年代後半から80年代前半までにかけてのカウンターカルチャー、産業文明批判の流れが、フランス構造主義として結実して花開き、日本では吉本隆明などがそれに対応するかたちで論理展開をしました。


構造主義はアルチュセール、ラカン、フーコーときますが、マルクス主義の立場に固執せざるを得なかったアルチュセールと違って、フーコー、ラカンには独自の論理展開があり、特に著作がほぼ完結しているフーコーの世界はひとつの完結したユニバースをつくっています。


わたしの立場はフーコー、ラカンの論理を吉本隆明と相互補完的に使用し、人間主義=ファシズム、マルクス主義を越えることです。

日本人の身体

身体などというものはない、といいたいところだが、こうしたタイトルがついた本は羊頭狗肉なものが多い。

こうしたテーマを立てるには前提がある。
  1. 文化とはなにか
  2. 伝承とはなにか
  3. 技術的継承の物理的基盤
  4. 言語とはなにか
基本的に現在、これらの要素は技術的・情報的集約化による社会改革においては障害物、あるいは無視してよい、積極的に無視すべきものとされる。

身体は統計的人口、分子生物学的情報としてカウント可能というものに解体する。

もともと身体というものはないので、身体は基盤にならない。医療的措置の介入対象にすぎない。

統一地方選:首長に提言

技術言語と文学言語

スマホの登場とともに技術的に社会問題を解決してしまおう、できるはずだという機運が高まっているように感じる。

あらゆる無駄や障害はバグとしてあつかって乗り越えてしまおうというのだ。

こうした技術を基盤にした幻想というのはいつの時代にでもあったが、今回の共同幻想の形態を考えてみる。

ここでいう幻想というのは、社会学、経済学、心理学、教育、医療、福祉、なんでもいいが、ある行為を正当化し権利を主張するマインドセットだ。

学問と制度は違うが、細かい違いは捨象する。

技術的解決と社会的課題というセットは、社会的正義を以って主張される。ここに世代間闘争や格差の批判が上乗せされたりする。

社会ファシズムの技術的形態とまではいわないが、社会的制度の自己目的によって予め結論の決まった圧力団体となり、自らの組織体の利益を実現させていく。

ここでは自由は基本的にない。情報伝達の媒体として個人はあるだけであり、指令を伝達するだけである。

これは教師が知識を生産せず伝達すること、正確な伝達を旨とすることに似ている。

つまるところは官僚主義である。

言語使用がそれ自体として自由であるという発想はそこにはない。デジタル・デバイスの一環としての発話であり、記述である。

それをもって科学的・合理的とする。


理性による社会的制御は不可能か


「理性による社会的制御」というが、「社会」という概念そのものが「理性」と「制御」を含んでいるのである。

そして、 「コミュニケーションのまともな作動」というが、これは何によって成されるのか。理性(ロゴス)によってではないのか。「暴走、全体主義への加担」から、どうやって逃れるのか。それも理性ではないのか。


ここにはポランニーの暗黙知に対する曲解と、ポランニーが厳しく批判するウィトゲンシュタインとの無理やりの結合がある。

これは失敗の研究はできるが成功の研究はできず、さしあたって失敗する行為を「しない」ことがもとめられる。

するとそういう行為をする人間を非難するあるいは攻撃することが目的となり、さして代わりがなくなる。

ここで理性を技術といいかえる。情報化でもいい。技術集約、情報集約による社会制御は可能か、ということになる。

2014年5月24日土曜日

子供を虐待する保育所改革

子供から学べる、と考えている親は少ないです。自分の面倒を自分でみれない未熟な存在としか子供をみてません。

 「「子供のための保育」から「親が働ける社会」へ。発想の転換なしに日本の未来はない。」

子供のための保育ではなく、親が働けるための保育を、とありますが、それならそもそも子供はいらないのではないですか。

なんのために生んだのでしょう。面倒だから買ったペットを捨てる、ごとき乗りです。

これだと一番効率いいのは子供をなるべく多く一定の空間に詰め込んでおとなしくさせる工夫でしょうね。

成人まで扶養するのも面倒でしょうから、早く大人にして働かせればよいのではないでしょうか。

ヒューマニズムの破綻への反動から、こうした機能主義が跋扈するのでしょうが、人間とは何かを忘れてこうしたところに落ち込んでいく議論は空恐ろしさを感じさせます。

ヒューマニズムとは別のところに本質論が求められるのはいうまでもありませんが、こうした議論の方向性だけでは結局子供の精神の破壊を生むでしょう。

こどもを生めと言って、子供の立場を抜きにせよ、と発想転換する、子供にとって未来が無いのであって、経済(学)的議論だけで割り切ろうとする限界である。


堀江貴文氏の功罪

吉本ばななの父親である文芸批評家の吉本隆明は、金儲けをするなら堀江さんのいっているようなことをストレートにやるのがいい、というようなことをいっていた。

しかし、吉本は晩年までコミュニケーションの道具という言語観を否定した。

堀江氏のいうことは欲望を情報の加速化、技術の集約化によって現実化し、障害になるものを排除していけばそれがビジネスになる、というものに思われる。

つまり情報伝達のスピードが決めてだと見ているとおもう。

戦争が生み出したものが原子力(原爆の応用)、コンピューター(暗号解読器)だといわれる。

そのうちコンピューターの用途は、コミュニケーションの加速とされる。

それは情報AをBへ伝達する速度が上がれば上がるほど、進歩した社会とみなされる。

それに対して吉本はどんな言語観を問題にしたのか。

たとえば言語表現において情報伝達だけの世界と、上からの指令だけの世界は、それを中継する個人の存在がなければないほどいい。

そこにいて、ある時空を占めていて、これを書き込んでいる実存の剰余はいらないのだ。

伝達目標を達成したら終わり、という世界である。

そうでない言葉とはなにか。

ラカンのようにそれ自体として欲望の対象になり、永遠に到達できない欠如としての穴でもある言葉(シニフィアン)ではなく、逆行する言葉である。

堀江氏は国家という枠は不要と考える。これに対して一種の逆行として共同幻想としての国家が過去の形でよみがえってくる場合がある。

つまり先に行こうとすればするほど、何か先祖がえりのような事象が発生するのだ。

コミュニケーションとしての言語は機能的に失敗と成功の二つしかない。

言語それ自体を使うことの自由度や創造性は想定されない。所与あるいは不問となる。

結論や結果が同じならば迂遠な回路を執るより単純な方法をとる。

言語の自由とかかわった精神の自由はそこにはない。




町山智浩が2014ハリウッド版「ゴジラ」を激賞

https://www.youtube.com/watch?v=MOCPukisPnU

内田樹

内田氏の一連のツィッターでの発言について。


「機動性」(mobility)というのはジョン・アーリの概念だと思いますが、彼が社会に代わって機動性を対置し、後にモバイル・マシンに対して不動性を対置したのは、もう二十年も前になります。初発の問題提起はスマホや携帯よりはるか以前であり、しかも最後には不動性を指標にしているのですが、「社会学を越える社会学」

ここでは日本文化、日本語、というものが、合気道の師範であり自宅を日本的な揮毫で飾っている彼が何をいいたいかは別にして、わかっていないということを言えば十分に思います。

 つまり、日本文化なり教科書化された国語なりが、あらかじめわかっていないから歴史の再定義が必要なのであって、それ以外でないのです。

ただここで彼は日本文化なるものをローカルに限定されたものとして普遍性を持っていないと考えていることはよくわかります。


また文化資本とは以前彼は肯定的にとらえていたようにも思いますが、もともと教育効果についての議論であり、彼がいっているのは文化資本を蓄積し継承する場と、表現する場が維持できないといっているだけのようにみえます。

2014年5月23日金曜日

現実と現実性

パウロ・フレイレという教育学者がいます。ラテンアメリカの文字を知らない労働者に文字を教えることで、現状を変えていく力を身につけさせていくというものです。

文字を知らなかった労働者にとって、文字を知る以前の現実と、知った後の現実は違うわけです。

 ひとつは誰がその現実を現実であるかとみなすかであり、人によって視線は異なります。

 そして上位から「これが現実である」と指令する支配者なり教師なり牧師なり導き手がいるのです。

先のパウロ・フレイレの実践は、植民地支配あるいは搾取からの解放という前条件がありました。

搾取されるインディオは、自らが極端に搾取されていることを言葉を通じて知っていくわけです。

 ここにはもちろん階級格差という前提の議論があり、その解消という目的の下に言語学習がなされていくわけです。

 カントは、人々が目覚めないのは、人々を導くものがいるからだ、といいました。

 はじめに「これが現実だ」と教えるものがあり、その枠組みが作用する現実がある。

 家庭教育と学校教育との関数ともいえますが、いずれにせよ私たちはそういう規制を逃れられない。

誰かがいったことが大半になるわけですから、現実というのはまわりまわってもう一回虚構になりかねない。

 言葉と現実は別で、にもかかわらず言葉で現実を認識するしかない。

 つまり言葉がすでに虚構性をふくんでいるという現実があることになる。

そして言葉が現実と分離して揺らいでいなければ、私たちは新しい世界を何一つ作ることができない。あるいは言語使用の自由はないということになる。

2014年5月22日木曜日

ハリウッド版「GODZILLA」初日の興行収入2014年最高額を記録

ハリウッド版「GODZILLA」の脚本家が描きたかったゴジラの姿とは

このゴジラには原発が破壊されるシーンや津波がもろに出てきて、3.11の問題を正面から取り上げているようですが、もともと第一作の「ゴジラ」も水爆で巨大化し、放射能を吐くようになった怪獣を描いたものでした。前回のイグアナのハリウッドゴジラと違って、原点回帰したといえるでしょう。

 ゴジラを倒す芹沢博士役は、今回は渡辺健で、バットマンからの定番的な感じですが、もともとは故平田昭彦が演じていたもので、私は見た目で京大の小出さんが出てきたとき連想したのですが、この博士(といっても平田氏の演じている様々な役柄ですが)、ウルトラマンを倒したゼットンを発明した新兵器一発で倒し、バルタン星人の大軍団も発明した光線銃で倒し、しまいには片目をを失ったミスターKとして、レインボーマンを相手に日本人を地球上から抹殺する「死ね死ね団」をつくるほどの博士(役者)なのです。

 話がそれました。新作のバットマンシリーズで、これまでにない描写、サタンとしてのジョーカー、救いのないバットマン、非常に時代を真っ向から反映した重厚な作品をつくった「ダークナイト」「ダークナイトライジング」のレジェンダリー・ピクチャーズが、これまでにないゴジラを作ったといえるのでしょう。

 「ハリウッド版『GODZILLA』(日本公開は2014年7月25日)の週末の推定興行収入が、約1億9,620万ドル(約200億円)で世界1位を記録したことが明らかになった。」

 この映画のなかで芹沢博士役の渡辺健が米軍高官にアメリカは日本に原爆を落としたというシーンがあり、アメリカの観客は一瞬沈黙したらしいです。

 関連記事 映画『GODZILLA』が世界的なヒット ゴジラはなぜ “GOD” なのか?:クリスチャン・トゥディ

神社は町おこしの中心

経済人類学では非市場社会においては宗教的儀礼と経済的活動の区別がなく、支払いとは祓い清めることであり、貨幣は宗教的呪物としてもっとも価値を持つものであり、社会を統合するものでした。

そして「社会」の定義としては、
  1. 同じ貨幣を持ち

  2. 同じ祭りを行い

  3. 同じ刑罰、タブーを持つもの、
と定義されました。

祭りは共同体の成員に対する財の再配分の機会であり、「市」はその機会に立てられました。

日本民俗学の創始者の一人柳田国男は、神社の立てられる場所を関東のような台地においては水が湧き出るところで、そこから田畑に水をひいたとみなしました。

神社は共同体の宗教的儀礼の要であり、そして財の再配分の経済的場所だったということになります。

そして神社は国家神道批判があるように天皇に一元化されるシンボルだともいわれるのですが、もともとはその土地の神であり、日本が場所連合として成立する際に天皇をその連合体の象徴にする際に天皇家との関係も付与されたものです。

もちろん日本全体の財の配分、税やサービスの貢納とそれに対する報奨というように国家レベルでの経済と象徴の統合的行為があるわけですが、さらに個別の場所において経済的機能を担っており、共同体の中心でした。

現在も最も古くから残っているものは神社と地名、地形と仏閣などが多い。

これは思想というより、共同体の歴史、精神史ともいうべきものであり、現在でも活用されるのを待っているのです。

そしてそれにはまず象徴として取り戻さなければいけないだろうというのが、私の主張です。


消滅する豊島区と子供が増える世田谷区

豊島区が消滅するという以下の記事について、記事(<消滅可能性>豊島区)を書きましたが、


<消滅可能性>東京都豊島区「昼人口多いのに」「寝耳に水」

「全国1800市区町村の半数に当たる896自治体で、子どもを産む人の大多数を占める「20~39歳の女性人口」が2010年からの30年間で5割以上減ることがわかった。豊島区は、東京23区で唯一、「消滅の可能性」を指摘 」


一方世田谷区は一年に千人ほど未就学児童人口が増大しているというあり様。


文化都市宣言をした高野区長の思惑とは別に、なぜこうも違うのか。


世田谷区の広報ツィッターをフォローしていて、こういうのが来ました。




このリンク先をみていて、カリキュラムを見ると、糸紡ぎから機織り、藍染めまで一通り習えるようです。つまり、衣食住でいえば、衣にあたる部分の布作りまでは体験できることになります。


ほかにそば、うどん打ち、木挽き、茅葺き、紙漉き、包丁研ぎ、味噌づくりなどありますが、こうした試みは豊島区ではないのか、ツィッターで公式にあるのは防災だけで、もちろん区長が積極的に世田谷のように使用してはいません。


私は文化都市といいながらITを使えない、発信をおろそかにする、ということは、防災都市なのではないかと思います。そして、防災が目的である以上人が消滅すれば災害は起きないのです。
 

スマホを使わない私が思ったスマホアプリバブル

基本的に起きていることは「情報の個人化」であり、PCが小型化しているといっていいと思う。ウェアラブルというのは脳に直接PCを接続するまで行くだろう。

そこで起きるのは、個人のメディア化というより、メディアの消滅である。

問題は、企業も党も学校も国家もメディアであり、それらを飛ばして個人が直接情報を処理しなければならないということである。

近代国家そのものがメディアであったのだから、それらを飛ばして個人が直接に情報処理する、そうした未曾有の自体は人類は直面したことのなかったものであろう。

ここでよく言われるのが日本人の主体性の確立であり、西欧個人主義の再評価だったりするが、そのような個人はもともと存在せず、情報、教育、知識、言語の意味が徹底的に問い直されなければならなくなるだろう。

今のところメディアの囲い込み利権による操作を前提にした議論が大半なので、これがいったいどういう意味を持つかはもう少し時を待たねばならないだろう。

2014年5月21日水曜日

アイデアのつくり方

ジェームス・W・ヤングのこの本は、

アイデアの成立過程を、


  1. 資料収集

  2. 資料解読

  3. 思考放棄

  4. ひらめき

  5. 現実の有効性へ具体化、展開

の五段階としています。

3の思考放棄は、解釈した資料を一旦思考の外へ 捨ててしまうこと、何かが浮かび上がることを待つことです。

そして4ひらめき、がやってきて、

5の実際性に落とし込む段階がまっています。

最後の段階が「翌朝の冷えびえとした灰色の夜明け」と名づけられていますが、生まれたてのアイデアを現実のせちがらさに適合させるため、胸にしまいこまず、理解ある人々の批判を仰ぐこと、とあります。

良いアイデアはそれ自身で成長し、人々が刺激され手をかしてくれる。はじめ見落としていた可能性が出てくる。


30年前のプラモを作る

まず、ギロチンのプラモデルから。これは最近復刻されたもので、モノ自体は50年以上前ではないでしょうか。
 
   

次は、ミイラ男。これも同じくらい古い。復刻版で30年前。
次は、からかさ。これはもともとは40年以上前と思いますが、復刻版で30年ぐらい。
次は、ステゴザウルス。昔の復元模型。左がイギリスのエアフィックスで40年位前。右がタミヤで30年前くらい。
 次はスターウォーズのC3POが2つあったので一つを青竹色にしてB3LE(ブルース・リー)とした。35年前。

次はバルタン星人。25年前。 バンダイ製。

 これは30年前に作ったもの。これら以外はほとんど30年前に作りかけ放置していたのを去年作成
ゴモラ。25年前ぐらい。
 ガメラ。左に転がっているのはドラキュラ。
ぺギラ。

 今回不足して唯一買ったもの。エナメル塗料薄め液、接着剤、ラッカー薄め液。塗料は30年前のを全部使用した。

 ジムを運ぶザク。中学生のとき作って放棄していたもの。
 うしろ。
 エイリアン
 ゲルググ、ゾゴック
 キングギドラ
 ウルトラマン
置く所がない

 おつきあいいただきありがとうございました。

2014年5月20日火曜日

私のガチャガチャ

ガチャガチャ・ガチャポン専門 あミューズ

のサイトを見ると、本体が気軽に買えますね。

私の幼少期のイメージは、

これ、に足がついたやつ。「20円」ぐらいだったと思います。

裏ワザ 、は引っくり返して出穴に入れる、というもの。すきなカプセルが穴に入るまで何度も繰り返す。

それでは、私の玩具の墓場からおよそ40年前のものを出してきます。

まず生物もの。
卵形のカプセルに入ってます。
次はガンダム。カプセルが溶けちゃってます。自分で彩色してますね。なんという無駄な情熱。
他にもこんなに重複がある。
初期のウルトラ怪獣、SW、怪人、妖怪、志村。この頃はほとんど消しゴムですが、消せない消しゴムで、スーパーカーからの引継ぎでした。
めまいがしてきたのでやめますが、もっとふざけたものはいっぱいありました。谷中でアートイベントやってたときに芸大の学生の作品なんか展示場でガチャガチャに入れて売ってましたね。200円かな。おみくじもみた。自分で小物を作って売れるわけです。当たり券とか。握手券とかに使えるかな。

最近のものは中野まんだらけ に行けばあるんじゃないかなあ。

三流大学について

「オランダには、大学入試がありません。そのため、塾も受験産業もほとんど見かけません。高等教育機関の卒業試験をクリアすることで大学入学資格を得ることができます。日本の教育と比べると、あまりの違いに愕然(がくぜん)とします。そうした教育システムの源流を探ると、ある理念に行き当たります。それは、「教育の自由」というものです。」保坂展人 オランダ報告(2)「受験なき教育」 3学年が一緒に学ぶ



三流大学なら行かないほうがまし、と慶応出身のある教授は言ってましたが、慶応には明らかに裏口入学がある、とも言ってました。

ある芸術家(本人は非大卒)が、芸大(東京芸大)と他の美大の連中はやっぱり違う、と言っておりました。

知ってる限りで早稲田の学生はみないいところへ就職しましたし、東大の院生は東大はどんなことやってもつぶれない、とつぶやいていた。

その大学毎の文化資本があり、環境の差異がある。

同じ大学でも学部が都心以外にあると田舎臭くなる。

また国立と私立は違う。

大卒と高卒は違うし、専門学校卒も違う。

時々小学校も行ってない子がいる。

さて、18歳以上の労働人口の再配分機能を持つ大学受験は、一流大学とその他の差異をも生む。

では、どうするか。

三流大学があるのは、一流大学があるからなのです。(受験制度の必然という意味)

結論は学校をなくしてしまえ、です。19世紀的工場の展開である学校システムは、自己目的化した試験制度とカリキュラムをそなえ、もはや旧弊な象牙の塔でしかありません。

情報化社会の学習システムは、違うあり方が求められています。

国語算数理科社会、などの分類や、6,3,3,4制などは、何の意味があるのでしょうか。その制度の下で利益を得たもの、得るものが誘導して維持しているシステムでしかありません。

すべて考え直すことができ、考え直すことができるものです。教育という概念が終焉し、学習にとってかわるのです。

歴史の断絶を埋める地名と神社

社会企業家という言葉が日本に出たはじめと、NPO法人化のはじめに僕はいました。そのとき僕はあちこちまわり、見聞きしました。

当時は何も実態がなく、無認可保育園が社会企業というのは、隙間産業を狙ったからだ、と保育所の経営者に聞いたことがあります。

空家や古民家は建築系の学生を中心に、あちこちでリノベーションが行われていました。

しかし学生が卒業して終わったり、若い人しか集まらず、あるいは若い人が前の世代に対抗して作っているという意味合いも生まれてしまいました。

私がその後、日本でホスピタリティ銀行を唯一商標登録している、地場金融機関の巣鴨信金で行われていた研究会などに行って思ったのは、歴史の軸が欠落して、世代的にも人的にも分断されてしまっている、ということでした。

店や場所が一件、あるいは数件点在してもそれは点でしかなく、その地域における面として広がっていかないのです。

そして私が古地図や地域史を引っ張り出してきて目をつけたのは、地名と神社でした。

変わってしまったものもありますが、変わってないものはそれらと仏閣だったりするからです。

地名の由来や神社などをイベントに常に絡めて考えていくということです。

そして見えなくなってしまっていても、その土地にはその土地固有の神がいる、神話がある。

地域のキャラクターというのは、現在の店や物産などの部分ではなく、イベント、祭礼などと絡めて歴史貫通的に創造されるべきで、その手がかりが地名や神社だというものです。


学校つぶして農地にしよう!PCあれば校舎は要らない!

少子化による空いた校舎の活用がいわれていますが、農地にすればいいのです。解体が面倒なら校庭と校舎で栽培でもすればいいのです。

コンピューター時代に校舎は要りません。一人の教師に集団がぶらさがる教室など時代遅れの工業化時代の産物です。

集団作業とよくいいますが、農業でやればいいだけです。

食料上の安全保障にもなり、新鮮な食物が食べれます。

2014年5月19日月曜日

商品・制度・社会をひらく


以下のツイートを発見した。


記事はダイヤモンド・オンラインにあった。

 分散市場と自動化企業が作る未来社会――起業が容易になれば社会は進歩する 
 
私にとってはDACというのはよくわからず、ビットコインも決済方法として有効なら個人間で使われていくだろうということしかわからない。しかし大石氏のこの「近代の終わりを決定付けた」という話の意味だが、私はこう拡張解釈してみたい。商品・制度・社会が近代の産物そのものであり、内に閉じることによって構成されてきた。ブログでいえば自分の記事に集中させることが利益であり、意味を外へ分散させていくことは利益ではない。しかし、利益とは常に外部にあるものであり、外に採りに行くものである。自分の考えたこともない世界へ常に拡張させて開いていくことにしか、利益獲得の方法はない。商品・制度・社会は環境生存経済へと開いていかねばならず、そのための言葉の実験は常に対象を外に求めて新たなことを考え続けていくしかない。

2014年5月18日日曜日

場所の再構築

前回中途なので続けてみます。城南信金の理事長は脱原発宣言をしました。大企業との資本関係が無いため可能だったと思われます。大銀行は大企業と取引があり、大企業は原発関連に投資をしているので脱原発はその利害関係を崩してしまいます。

城 南信金は住宅ローンか家賃収入がメインの収入だったと思いますが、信金は中央に一定額納めなけらばならない仕組みがあり、それは原発に使われているので、 城南の理事長にいわせれば、「お金は全部つながっているので変えられない。ゆえにオピニオンで変えるのだ」、となります。

住宅関連がメイン収入というのは城南地区がベッドタウンだからなのでしょうが、そこの役割分担ということになります。

私は震災以降、安全保障上の問題としても、エネルギーと水を含めた衣食住を、行政区画上の自治体範囲でなく、実際に可能な生態系範囲で再生産を確保することがこれから必要だ、と思いました。

その場合原発を使うかどうかはその地域の個別判断です。

これは自由貿易に反するといわれますが、先例というかモデルがあります。

ちょっと疲れているので、また次回につなげます。

心的現象論総論という書物

この本ははじめの資料提供に私がかかわったので、たまたま5,6回通して読んでいたため、自分にしかわからない点があったので整理して後世に残したい部分があったのですが物理的に関心が維持できないのであきらめました。

2014年5月17日土曜日

場所の再構築

前回中途なので続けてみます。城南信金の理事長は脱原発宣言をしました。大企業との資本関係が無いため可能だったと思われます。大銀行は大企業と取引があり、大企業は原発関連に投資をしているので脱原発はその利害関係を崩してしまいます。

城南信金は住宅ローンか家賃収入がメインの収入だったと思いますが、信金は中央に一定額納めなけらばならない仕組みがあり、それは原発に使われているので、城南の理事長にいわせれば、「お金は全部つながっているので変えられない。ゆえにオピニオンで変えるのだ」、となります。

住宅関連がメイン収入というのは城南地区がベッドタウンだからなのでしょうが、そこの役割分担ということになります。

私は震災以降、安全保障上の問題としても、エネルギーと水を含めた衣食住を、行政区画上の自治体範囲でなく、実際に可能な生態系範囲で再生産を確保することがこれから必要だ、と思いました。

その場合原発を使うかどうかはその地域の個別判断です。

これは自由貿易に反するといわれますが、先例というかモデルがあります。

ちょっと疲れているので、また次回につなげます。

東京の空き地を農地にしよう

今自宅の向かいの家屋が解体され更地になりました。

社員寮と思いますが、解体工事で毎日地震のようにゆれて精神的に疲れました。

地盤の関係で近隣に新しいマンションが建つたび地震のときに大きくゆれます。

私はスローライフの実現には東京に農地がもっと増えないといけないと思います。

北区や巣鴨周辺には牧場があったといいますが、明治維新以降146年しか経っていないのに東京もほぼ農地ばかりだったのが消滅してしまいました。

近隣の小学校の校庭で畑をつくってるようですが、そこの児童だけが使用できるようです。

住居の近場に農地があり、自分らで作るようにしないと東京には住めなくなっていくのだと思います。

人間本性について(フーコー対チョムスキー)

チョムスキーは言語学における変形生成文法の設立者で言語学者、左派の思想家として有名で最近来日もしました。以下はフーコーとの対談ですが日本語字幕ですが時間が十分の一ぐらいしかありません。フーコーの視点は左派のいうような政治改革の可能性について徹底した批判の立場で、マルクス主義と構造主義の対決ともいえます。サルトルはフーコーを「ブルジョワジーの最後の砦」といいました。日本でフーコーは吉本隆明と元東大総長の蓮見重彦氏の通訳で対談しました。
フーコーは左派が批判の対象にするような警察や軍隊のような組織と、病院や学校という福祉の領域に入るような制度を近代社会の装置としてセットに見ます。そして基本的人権を支えるような人間本性の定義を時代とともに変わるものとし、人間についての永続的な定義を否定しました。フーコーの定義だと左右の違いはほとんどなくなり、近代社会とそれ以外の社会に分かれてしまいます。理論的反人間主義とは人間について固定的な定義を避けるものであり、永続的な問いかけともいえます。理論的反人間主義こそが真の人間主義の唯一の道だ、といったのはルイ・アルチュセールという人ですが、理論というものにどう向き合うかが文化の要であるという考え方だといえるでしょう。
つまり現在の社会での「正義」が、来るべき世界に必要とされているかはわからないとするもので、普遍的正義は西欧の財産であるとするチョムスキーとの対決です。
 そうなると、政治における主体性がみえなくなります。フーコーはニーチェをひいて無秩序の暴力の連続的発展の歴史としますが、それだとたまたま勝った者が勝っただけになります。

 フーコーとチョムスキー ~人間本性について~(日本語字幕)1/2、 2/2



フル動画は以下です。

2014年5月16日金曜日

LGBTと共同幻想論

欧米の性差、ジェンダーをめぐる議論で一番核になっているのは、主に文芸批評の分野におけるフレンチ・フェミニズムの理論で、フロイトからラカン経由の精神分析議論が入っています。 膨大な文献がありますが、有名になったのは「ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱」です。 欧米の議論で驚くのは生物学的性差、オスとメスであることが生み出す違いを一切認めないことです。 その見地からすると渡辺淳一氏のように医師の見地からの解剖学的女性論はすべて男の幻想になる。 僕もいくつか原書を持ってますがとても追いつけない。日本で議論が深まるにはもう少し場が必要でしょう。 これは居場所とかかわる問題だと思いますが、吉本隆明の共同幻想論では対幻想という概念で男女問わず「一対一」の関係性を問題にし、3人以上の集団性を共同幻想とし、自分自身との関係を自己幻想とします。 精神分析理論は対幻想の問題をあつかっているのですが、この三つの次元、とくに共同幻想という概念は欧米の思想家にはまったくありません。 地域が自立していくためには場所の共同幻想の構築が必要になるというのが僕の視点で、そのために地域史をひっぱってくる。 スマホなどでは恋愛、つまり対幻想の物語がメインになっているようですが、私の関心は失われてしまった土地の幻想にあり、神社祭礼などを調べている。

他人に役立つ自己紹介

他人に役立つ自己紹介、自己評価ができれば、それを導線にしてふくらませていくことが可能と思いました。ただ、それがなかなか簡単ではないのです。

2014年5月14日水曜日

貨幣数量説


タイトルだけで難しい観がありますが、フリードマンは金さえ刷っていればいい、インフレターゲットを定めていればいい、というだけだったと思います。

ただ前提として市場化とか、自由化があります。

ここでケインズがどう入ってくるのかということですが、ケインズ=公共投資でいえば、マネーサプライの調整自体結局そのセクターにとっての公共投資なのだ、ということかと思います。

もともとフリードマンは公共投資は官僚化をうむので、だめだいうことだった。教育も民営化しろといっていた。

ドラッカーは貨幣を調整できる考えそのものが過ちだとした。

 貨幣の発行主体が国家であり、独自のセクターによる制度だとすれば、結局公共投資と変わらなくなる。

ここに批判が入るのですが、日本の問題は少子化でそこに手当てすることが公共投資だという説は聞かれます。

 で、民営化=資本化なのかという問題が小泉政権時に提起されたと思いますが、結局これは共産主義の実験の批判、国家による強制撤収=平等な分配、がどうなのかという問題につながります。

ウクライナでは農家が野原一面広大な土地をわけあたえられ、これはよいことではないないのかという議論がありますが、結局農薬の過大な使用で土地がだめになったといいます。

資本主義を超克する実験、という場合土地の問題は主要だとおもいますが、もうすこしのべてみます。

城南信金の理事長は脱原発=脱産業文明、をかかげていますが、信金の

地獄のミサワ公式ホームページ作成会議2014

付和雷同の広告収入

アドセンスが承認される方法がわからないのでむなしく過ごし、何か批評的突込みがないと改善の余地がないなと思ってあせり、他の人の投稿にコメント入れてみても意味不明にしかかけず、こうではないかと思っても遠慮し、強い意見は後回し、無駄な対立は避けたい、記事にして書いても誰も読まないし他人の参考にならない、というわけで失敗観が強いです。思い出せば十年は書いてました。
池田さんがちきりんさんの日記をRTしてましたが、

みんなが叩く人は自分も叩いていい、と考える人は怖いですAdd Star

私の意見と無理やり合わせてみます。
こういう人は情報伝達だけして自分の意見がないのです。あるいは自分を表現してないので、誰かがいったこと、やったことを鵜呑みにするか、自分の利害関係の打算で動いているのです。

これは池田さんの、本を読むかどうかと、ブログはアートであるということに対する応答記事

イケダさんへの応答

に書きましたが、吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」の自己表出と指示表出という言葉が元で、それにラカンのシニフィアン理論を重ね合わせています。

指示対象抜きの言葉、という考えは観念論として退けられてきましたが、一般的な解説は

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読む(1)高橋順一Auslegung-Yoshimoto-Takaakis 

でもご覧ください。

社会・商品・制度の現代神話の枠組みでは上限が設定されていて、その穴埋めをするだけで創造性はないのです。そして必ず限界がやってくる。


2014年5月12日月曜日

イケダハヤト氏への応答

池田さんから学んだことは、ブログはひとつの世界を作る、ということです。情報をAからBへと伝達すること自体が収益になっているということをネットの世界で知りましたが、本来それは価値ではない。


意見と事実を日本人は峻別できないとよくいいますが、もちろんこれは意見です。


じぶんの世界を言葉で作りえないで、あの人がこういったとか、誰がこうしたということをいっているようでは進歩は望めません。


物書きといっても、情報伝達屋(僕はこの仕事をしていましたが)と創作は違います。

じゃあどうすれば良いのか?まず自分がなぜ、その書いた対象に興味を持ったかを書くこと。

つまりその人がいないと物語りははじまらない。

そして、その物語がどれだけ普遍性、あるいは個性があるか。これは自分を語りだすしかなく、個性はその深度によるのでしょう。

 あと本を読む必要があるかどうかですが、今述べたように本に毒される人がいるので僕はすすめません。


でも選べというならば、漱石「吾輩は猫である」と、黒崎宏「ウィトゲンシュタイン「哲学探究」読解」です。


太宰は評価が定まってませんし、漱石のこの処女作にはありとあらゆるアイデアが詰まっています。


ウィトゲンシュタインは知識や言葉の放棄の書です。その放り投げ方が爽快なので読まれています。人はすぐに言葉に騙されるので、徹底的に投げ捨てるウィトゲンシュタインの洗礼が必要なのです。

 

2014年5月10日土曜日

<婚活>政府支援に46都道府県から求愛殺到

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140510-00000059-mai-soci


「男性の5人に1人、女性の10人に1人が結婚しない今」 となると結局男があぶれることになります。外国人頼み、でしょうか。


【子どもが生まれないと…消滅可能性、自治体半数】 と記事にリンクがありますが、 英語で言う出産=再生産の必要であります。


早稲田大の森川友義教授(政治学)は「婚活パーティーなどに税金を投入することへの議論はあるが、参加者が結婚して子どもを産み、その地域に住んでもらえれば将来的に元はとれる。男女を引き合わせるだけでなく、そこまでのフォローが大切だ」と話している。 とあります。


「内閣府によると、当初は男女が飲食店で集う「合コン」への交付金活用を認める案もあったという。自民党幹部などから「税金で飲食させるのは国民理解が得られない」と反対論が続出して見送られた。」 とありますが、こういうのなら行ってもいいかと思ったりしますが、結局仕事があるかで決まるでしょう。

米は主食ではない

日本人のソウルフード、という人がいますが、東北ではイモ正月という言葉があるように、渡来作物である米は日本列島に限っていうなら外来種です。渡来人が稲作技術とともに持ってきたものです。 そして稲作民が拡大して統治していく過程で稲作が伝播されました。 東北のほうは江戸時代に無理な干拓がたたって、埋立地が拡張されたためそこに住む人間は繰り返し津波にあっています。 目黒区史には、あわ、ひえ、きび等が主食で、米は年貢用に作って外に出していたという記述が見られます。 ここでは米は貨幣であり、そういったシンボルであるとはいえそうです。

2014年5月9日金曜日

待機児童や学童クラブ廃止は単に保育所や学校に子供を置いておければ良いのか

子供からすれば何でもいいから保育所や学校に放り込んでおけばいいというのはたまったものではないだろう。

預けなければならないのか、預けなくてすむのか、


究極のゴミ屋敷

ゴミ屋敷という言葉は最近聞かなくなりましたが、近隣に「究極のゴミ屋敷」と鳥越俊太郎氏にテレビ番組でいわれた家屋がありました。

なにかボクシングをやっていた人らしく小さい二階家の玄関にグローブが吊ってあり、海亀の置物のようなものが一緒に並んでいました。

二階の窓はガラスが無く、吹き抜けになっていて寝袋で寝ていたようです。しかし電気は通っており、真夜中にテレビの光と音が二回の穴の開いた窓から見えました。

テレビ番組でそこのレポートをしたリポーターが自殺してしまったらしいあの方だったんですが、この家屋は道路沿いに面しているというので倒れたら子供の通学路でもあるので危ない、ということで区が金を貸して解体して、住人は入院させられてどこかへ行ってしまいました。

十数年経った今でもその地は更地のままです。

 

学校は監獄か:フーコー「監獄の誕生」

70年代後半に世界中に学校教育批判の嵐が起きました。この「監獄の誕生」という本もその流れで書かれたものです。タイトルは本来「監視と処罰」というもので、邦訳は副題の方がひっくり返って主題になっています。

学校、病院、監獄、工場というものが相互作用して互いに人間管理を学びあいながら手法を導入していったというもので、ざっくりいえば人間をを統計的人口と解剖学的身体という側面で行政的に管理するシステムの一環として学校、病院、監獄が存在し、目的は労働力として資本に統合することです。
一望監視システム

つまり国家の基本的な支えである教育、医療、刑罰、などの装置がはじめて人間を人間として労働市場に統合させることができるということです。

国家論ではないので具体的な事件に対する措置や身体に対する処置が記述されるだけですが、フーコーはこうした制度を支える言説として経済学、言語学、生物学を指定し、この三つの相互作用の派生として社会学、心理学、教育学、犯罪学をみなします。

そしてこうした学説と制度上の強制によって、異常、犯罪、逸脱、愚鈍、病気、狂気を矯正し、労働市場にとって「役に立つ」人間にするのです。

フーコーは国家を批判しているのではなく、西欧近代社会という特有の制度の、他の時代との違いを問題にしているのです。



ギャル文化=キャバクラ全盛時代の終わり

ギャル雑誌の購買層を知っている人たちには周知のようですが、ギャル文化というものはキャバクラとその予備軍によってつくられたもので、基本大卒未満の層なのですが、女子大生でも裕福でなかったり親と離れて稼ぎたい場合はてっとり早くキャバクラやより高級クラブにいったりします。女子大生専門の店の場合ギャルカルチャーは浸透してないでしょう。

客層はやはり大卒未満の職人、肉体労働が昔は多く、今はサラリーマンがメインでしょうが、ギャル的な人は自営業かサラリーマンと結婚してやめていくのでしょう。

いいわけはつまらないですが当然このような図式はデッサンであり、私自身は低学歴の肉体労働で安キャバクラも よく行って無駄に金を使いましたが、誰かを批判したり貶めようとするものではありません。

わたしの関心は相変わらずも以下の図式にギャル文化がどう位置づけられるかにあり、たぶん
アメリカのスクールカースト

不良かゴス、ヤンキー系は不良で、大人しいのはゴスでしょう。実際には中間みたいなのが混じっており、さらにマイナーセクターで不良のカーストが考えられますが、今日はこれまでにしておきます。

病児保育協会のゆるキャラがデビュー

(財)日本病児保育協会のゆるキャラがデビューしました! 

「「ほっとせい」です!」

ここで思い出すのは




















これはアザラシですが



水棲類人猿説!です。







当然これはトンでも狩り叩きに会うので関係ないとばっちりを受けないために飛ばしますが、人類の直立や裸や皮下脂肪の理由が海辺にいたからだというものです。








人気漫画「刃牙」ご当地ナンバー、府中が交付

人気漫画「刃牙」ご当地ナンバー、府中が交付へ

「漫画のご当地ナンバーには「ルパン三世」(千葉県佐倉市)、「名探偵コナン」(鳥取県北栄町)、「イヤミ」「ニャロメ」(青梅市)、「ゲゲゲの鬼太郎」(調布市)などがある。」

自分たちのシンボルでなく、あるいはあらたに生み出すのでもなく、すでに知名度のあるイコンを使ってしまおうとのことだが、 公募して生み出すとか皆の案を集めるとか少しは手間をかけたらどうかと思う。

豊島区のように生活空間の整備抜きにシンボルだけ作っても仕方ないが、生活空間を再生するビジョンにその土地のシンボルは必要なのだ。

<消滅可能性>豊島区

<消滅可能性>東京都豊島区「昼人口多いのに」「寝耳に水」

「全国1800市区町村の半数に当たる896自治体で、子どもを産む人の大多数を占める「20~39歳の女性人口」が2010年からの30年間で5割以上減ることがわかった。豊島区は、東京23区で唯一、「消滅の可能性」を指摘 」

「人口約27万人。人口密度は1平方キロあたり2万673人(13年)と、全国の市区町村で最多。池袋駅は1日乗降客数が約250万人。「消滅」のイメージとは結びつきにくい」

「仮に」この推測が本当だとして、誰でも言えるようなことを言ってみるならば、文化都市宣言をしたものの、生活しやすい空間が文化であるという視点がなかった、 といえそうですが、自治体のできる範囲でどれだけできるのかわかりません。

子供を文化的な土地で育てたいと思うならお隣の文京区に行くのではないでしょうか。

また、「理由」がないので考えようが無いのですが、引用すると「長男(1)を抱いて区役所を訪れた女性(35)は「子育てにしっかりとカネをかけないと、いずれ『消滅』が現実のものとなるのでは」と突き放す。保育所の確保が難しいため、他の自治体への転出を考えているという。」

というと世田谷と同じ待機児童の問題ですが、本当にそうなのか。

以前書きました(豊島区の由来)が、豊島区はもともと巣鴨村池袋村と雑司が谷村と長崎村と高田村の集合体で「豊島」の中心ではありません。 西巣鴨村とまとめていわれたこともありますが、豊島というなら北区豊島があるように豊島城のあった平塚神社中心に北区(滝野川区だった)が豊島区というべきでしょう。

だから豊島区など名前ばかり大きい砂上の楼閣のように消えてもいいのですが、もともと行政単位、特別区制度そのものも仕切りなおしするべきでしょう。おそらく利権化して再編成できないのです。