2014年9月26日金曜日

愛のないセックスとセックスのない愛

六本木リバ邸での昨日のセッションでの話で承認欲求という言葉と、男女の性差で男の役割が階層的に役割にはまっているという話が出た。

私個人は自分が納得できればよいので承認欲求というのはいらないと考えていた。さらにみな個人というものがまずあって、そこから自分の考えなりや主体が連合して社会があると考えているようにもみえた。

私はそういうものはないと考えていて、そういうものがあるかのように教育させられる、という考えに傾いている。そしてそういう単位を設定する社会学や心理学、教育学が仮説をいつの間にか実体化するのだ。

さらに男女の性差、ジェンダーやセクシュアリティの問題だが、西欧のフェミニストには生物学的性差さえ否定するものがいる。男女の性役割は文化的なものだとするのだ。

そこではいわゆる母性は神話になる。

東大の安冨教授は親から子へのハラスメントと、その隠蔽、そして結婚におけるスペック重視の立場主義による愛のないセックスとそこから生まれる子供、という問題をたてている。

この問題の射程は大きい。愛のないセックスなどといってしまえば、性風俗をめぐる、あらゆる産業や表現は、その類に入ってしまうからだ。

安冨教授はマイケルジャクソンの死の睡眠薬の過剰摂取も、父親の虐待は客観視できたが母親のそれを見ることができなかったためではないかとしている。

愛とはなにか、人間における性欲とはなにか、動物とはなにか、問いは果てしなく広がる。


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