2014年11月26日水曜日

酒房DT


 男は西新宿のバーのカウンターで注文待ちをしているあいだ、一冊の本を手にとって眺めていた。
 
 その本の表紙には、「アジアを巡る歴史認識」とタイトルがあるのに、表紙を飾る絵はアニメ顔のミニスカ女子高生が描かれている。男は中年。安っぽいスーツの肩にはフケがたまっている。短く刈り上げた頭に細いメタルフレームのメガネをかけ、髭の剃り跡が濃い。

 バーはカウンターに椅子が56席、ボックス席が2つほどあるだけで、いま店を開けたばかりの18時にはまだ他に客はいない。ママは20時からくるのでバイトの女子大学院生が一人いるだけである。

 男は院生がビールをケースから取り出しすために下をむいて腰を曲げている隙に、本を読んでいるふりをして胸の谷間をチェックした。胸はまったくなかった。院生は色白で髪の毛を無造作に上げており、特徴のない顔だった。男にとっては女が有名大学の院生であるということと、自分より若いということに意味があった。

 男が他に人のいない早い時間帯にバーに来たのはこの女目当てだった。男は自分が歴史の問題に興味のあることをひけらかそうとして、そしてアニメ顔の女子高生の絵なら自分より若い女の気をひくだろうと思って、カウンターに座って本をわざとらしく広げているのだった。

 女は反応しない。横顔を男にみせながら、少し口を開けたまま何か黙々と作業している。男が女の口元をよくみると、前歯が2本だけ飛び出していた。男は自分が飼っているハムスターを思い出して、「ハムスターみたいで可愛いね」というほめ言葉を思いついたが、沈黙を破って何かしゃべりだす勇気がもてなかった。こうして時間をつぶしているうちに誰か客が来てしまうかも知れない。次々と客が来たら、閉店まで何も話しかけられないかもしれない。いつも男はそうして無駄に金と時間をつぶしてきたのだった。

 「あの・・・・」と男が言い出しかけると、女はちらりと顔を上げて男のほうに目を向けた。男はどっきりして二の句が告げなくなった。女は忙しいらしくまた下を向いてなにかやっている。

 一瞬顔を上げた女をあらためてよくみると、化粧はまったくしておらず、TシャツにGパンの女っ気のまったく無い格好だった。華奢な体つきと髪の毛ぐらいしか女であると判別できる要素がない。

 男は沈黙に耐えられなくなって女が出したビールを飲んでお通しに手をつける。

 「きゃっ!」と女が急に飛び上がる。「どうしたの?」
 
 「ネズミ・・・」
 
 男は「ネズミに似てるのに怖いんだ?」と冗談をいおうと思ったがいわなかった。
 
 「この前もネズミが出たの」

 女は気が動転したのか急に饒舌になった。
 
 「ネズミそんなに怖いの?」
 
 「ネズミ怖いからこのお店やめようかな・・・」
 
 「ネズミ可愛いじゃない。ミッキーマウスとか」
 
 「おうちでは猫を飼っているからネズミは出ないの」
 
 「最近の猫ネズミとらないでしょう?店で猫飼うわけにはいかないしなあ」

 男は話を引き伸ばそうと酒をあおりながら言葉を重ねる。女に酒をすすめるとあっさり飲んだ。
 
 「いただきます」
 
 女は酒に強いようで結構飲んだ。外は雨が降りだし、未だ次の客は来ない。

 かみ合わない会話のまま、男は他に客が来ないこの店のカモにされたようだった。女に酒をすすめて二人でどんどん飲んだ。酔った勢いで歴史のうんちく自慢や、女がネズミに似ていることなど、思いついたことを全部しゃべってしまった。女は適当にあいづちを打ち、なんにでもあてはまるようなあいまいな返事をしていた。

 突然後ろからガタン!と扉を開ける音がして男はビクッとした。次の客が店に入ってきた。
  
 「いらっしゃいませ」
 
 男はあせった。次の客はまずトイレに向かった。男はチャンスと思って女に連絡先を聞いた。酔いと焦りが後押しした犯行だった。女はあっさり手早く伝票用紙をちぎってボールペンで何か書き込むと、男に渡した。男はすばやくその紙をポケットに入れると、金を払って店からあわてて退出した。
 
 男はかなり飲んでしまい、自宅への帰り道は覚えていなかった。翌朝男が起床して、女からもらった紙を開いてみると、「死ね」と書いてあった。

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