2014年4月30日水曜日

書評:ラカン「アンコール」解説


ラカン「アンコール」解説これはジャック・ラカンの研究書としては世界一です。日本の西欧思想の輸入も一巡して成熟し、世界のトップをきるまでになりました。

フーコーは言葉を言説としてとらえ、言説を言表の集まりととらえます。言表とは何かということですが、書かれたもの(エクリチュール)のうち、 物質性をもった一定の集合です。

書かれたものの総体のうち、何らかの基準で切り取られる集合であり、この基準は恣意的です。フーコーは書かれたものの固まりの物質性を強調します。この物質性の側面が言表といっても良いでしょう。

これはラカンにおけるシニフィアン(言葉の音、文字)の恣意性に似ています。ラカンにおいてはシニフィエ(言葉の意味、対象)は問題になりません。 一方言語の恣意性を問題にした筈のソシュールはシニフィエを問題にしているのです。言語で「犬」というか「dog」というかの違いは、たまたまであるというのですが、ある対象を指していることにはソシュールは変わりません。

ラカンの場合はシニフィアンが一義であって、対象は必要ないのです。これはどういうことか。

別の側面から見てみます。言葉は現実にあるものの表現であり、 何かを指し示すものとみなされています。一方、言葉は現実と関係なくどこまでも自由に使われ得ます。

ラカンのシニフィアンとはこの後者の現実と関係ない、あるいは現実と切断された言葉というのに近いです。ただラカンの場合はフロイト経由の去勢という考え方が入っており、人間が現実に近づくことの断念がゆえの言葉、というのに近いです。

そしてこの言葉、シニフィアンは当然音や文字の物質性の側面、それ自体として、他と切り離された境界があり、 その「もの」としてあることの固有性、独自性が問題となります。

言葉の自由な使用という場合、通常この物質性は問題になりません。それも言葉が指し示している対象の物質性ではなく、言葉自体の「もの」としてのあり方です。

ラカンには「役に立つ言葉の使用」という側面がまったくありません。役に立つには現実との対応が必要ですが、ラカンの場合現実との接触の断念から言葉が生まれているので、言葉はそれを使った人間を、はじめの意図を越えてどこかに連れ去ってしまうのです。

ラカンにおいて人間は欲望を持つ存在であり、現実との接触不可能性により、それが満たされないゆえに言葉を紡ぎ続けるのです。そしてそのような公式から、「性関係は存在しない」というラカンの有名なテーゼが出てくるのです。

シニフィアンは欲望の対象でありながら、その断念のあらわれでもあるのです。









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