前から書いていることですけれど、これからの階層化の指標は学歴とか資産とか文化資本とかではなく、端的に「機動性」(mobility)になると思います。自分の祖国ではないところでも快適に暮らせる能力の有無が格付けを決める。
— 内田樹 (@levinassien) 2014, 5月 23
日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の風土でしか生きられない、日本人が欲しがるものしか作り出せない、日本の生活文化の中にいないと生きた心地がしないという「機動性の低い」人たちは新しい階層社会では最下層に位置づけられることになります。
— 内田樹 (@levinassien) 2014, 5月 23
つまり、「日本語がなくなっても、日本の風土が失われても、日本文化が消え去っても別に困らない」というグローバルな人たちが階層上位を占めて日本の国政の舵取りを委ねられることになるということです。
— 内田樹 (@levinassien) 2014, 5月 23
「機動性」(mobility)というのはジョン・アーリの概念だと思いますが、彼が社会に代わって機動性を対置し、後にモバイル・マシンに対して不動性を対置したのは、もう二十年も前になります。初発の問題提起はスマホや携帯よりはるか以前であり、しかも最後には不動性を指標にしているのですが、「社会学を越える社会学」
ここでは日本文化、日本語、というものが、合気道の師範であり自宅を日本的な揮毫で飾っている彼が何をいいたいかは別にして、わかっていないということを言えば十分に思います。
つまり、日本文化なり教科書化された国語なりが、あらかじめわかっていないから歴史の再定義が必要なのであって、それ以外でないのです。
ただここで彼は日本文化なるものをローカルに限定されたものとして普遍性を持っていないと考えていることはよくわかります。
また文化資本とは以前彼は肯定的にとらえていたようにも思いますが、もともと教育効果についての議論であり、彼がいっているのは文化資本を蓄積し継承する場と、表現する場が維持できないといっているだけのようにみえます。
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