2014年5月25日日曜日

技術言語と文学言語

スマホの登場とともに技術的に社会問題を解決してしまおう、できるはずだという機運が高まっているように感じる。

あらゆる無駄や障害はバグとしてあつかって乗り越えてしまおうというのだ。

こうした技術を基盤にした幻想というのはいつの時代にでもあったが、今回の共同幻想の形態を考えてみる。

ここでいう幻想というのは、社会学、経済学、心理学、教育、医療、福祉、なんでもいいが、ある行為を正当化し権利を主張するマインドセットだ。

学問と制度は違うが、細かい違いは捨象する。

技術的解決と社会的課題というセットは、社会的正義を以って主張される。ここに世代間闘争や格差の批判が上乗せされたりする。

社会ファシズムの技術的形態とまではいわないが、社会的制度の自己目的によって予め結論の決まった圧力団体となり、自らの組織体の利益を実現させていく。

ここでは自由は基本的にない。情報伝達の媒体として個人はあるだけであり、指令を伝達するだけである。

これは教師が知識を生産せず伝達すること、正確な伝達を旨とすることに似ている。

つまるところは官僚主義である。

言語使用がそれ自体として自由であるという発想はそこにはない。デジタル・デバイスの一環としての発話であり、記述である。

それをもって科学的・合理的とする。


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