2014年5月24日土曜日

堀江貴文氏の功罪

吉本ばななの父親である文芸批評家の吉本隆明は、金儲けをするなら堀江さんのいっているようなことをストレートにやるのがいい、というようなことをいっていた。

しかし、吉本は晩年までコミュニケーションの道具という言語観を否定した。

堀江氏のいうことは欲望を情報の加速化、技術の集約化によって現実化し、障害になるものを排除していけばそれがビジネスになる、というものに思われる。

つまり情報伝達のスピードが決めてだと見ているとおもう。

戦争が生み出したものが原子力(原爆の応用)、コンピューター(暗号解読器)だといわれる。

そのうちコンピューターの用途は、コミュニケーションの加速とされる。

それは情報AをBへ伝達する速度が上がれば上がるほど、進歩した社会とみなされる。

それに対して吉本はどんな言語観を問題にしたのか。

たとえば言語表現において情報伝達だけの世界と、上からの指令だけの世界は、それを中継する個人の存在がなければないほどいい。

そこにいて、ある時空を占めていて、これを書き込んでいる実存の剰余はいらないのだ。

伝達目標を達成したら終わり、という世界である。

そうでない言葉とはなにか。

ラカンのようにそれ自体として欲望の対象になり、永遠に到達できない欠如としての穴でもある言葉(シニフィアン)ではなく、逆行する言葉である。

堀江氏は国家という枠は不要と考える。これに対して一種の逆行として共同幻想としての国家が過去の形でよみがえってくる場合がある。

つまり先に行こうとすればするほど、何か先祖がえりのような事象が発生するのだ。

コミュニケーションとしての言語は機能的に失敗と成功の二つしかない。

言語それ自体を使うことの自由度や創造性は想定されない。所与あるいは不問となる。

結論や結果が同じならば迂遠な回路を執るより単純な方法をとる。

言語の自由とかかわった精神の自由はそこにはない。




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