2014年5月23日金曜日

現実と現実性

パウロ・フレイレという教育学者がいます。ラテンアメリカの文字を知らない労働者に文字を教えることで、現状を変えていく力を身につけさせていくというものです。

文字を知らなかった労働者にとって、文字を知る以前の現実と、知った後の現実は違うわけです。

 ひとつは誰がその現実を現実であるかとみなすかであり、人によって視線は異なります。

 そして上位から「これが現実である」と指令する支配者なり教師なり牧師なり導き手がいるのです。

先のパウロ・フレイレの実践は、植民地支配あるいは搾取からの解放という前条件がありました。

搾取されるインディオは、自らが極端に搾取されていることを言葉を通じて知っていくわけです。

 ここにはもちろん階級格差という前提の議論があり、その解消という目的の下に言語学習がなされていくわけです。

 カントは、人々が目覚めないのは、人々を導くものがいるからだ、といいました。

 はじめに「これが現実だ」と教えるものがあり、その枠組みが作用する現実がある。

 家庭教育と学校教育との関数ともいえますが、いずれにせよ私たちはそういう規制を逃れられない。

誰かがいったことが大半になるわけですから、現実というのはまわりまわってもう一回虚構になりかねない。

 言葉と現実は別で、にもかかわらず言葉で現実を認識するしかない。

 つまり言葉がすでに虚構性をふくんでいるという現実があることになる。

そして言葉が現実と分離して揺らいでいなければ、私たちは新しい世界を何一つ作ることができない。あるいは言語使用の自由はないということになる。

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