基本的に起きていることは「情報の個人化」であり、PCが小型化しているといっていいと思う。ウェアラブルというのは脳に直接PCを接続するまで行くだろう。
そこで起きるのは、個人のメディア化というより、メディアの消滅である。
問題は、企業も党も学校も国家もメディアであり、それらを飛ばして個人が直接情報を処理しなければならないということである。
近代国家そのものがメディアであったのだから、それらを飛ばして個人が直接に情報処理する、そうした未曾有の自体は人類は直面したことのなかったものであろう。
ここでよく言われるのが日本人の主体性の確立であり、西欧個人主義の再評価だったりするが、そのような個人はもともと存在せず、情報、教育、知識、言語の意味が徹底的に問い直されなければならなくなるだろう。
今のところメディアの囲い込み利権による操作を前提にした議論が大半なので、これがいったいどういう意味を持つかはもう少し時を待たねばならないだろう。
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