フーコーもラカンもコミュニケーション言語を問題にしているとはとりあえずいえるのだが、ラカンのシニフィアン理論はそうとはいえない。ただそれは失敗に基づく固着であり、傷であるため、コミュニケーションが前提になっていないわけではない。
吉本の場合はただコミュニケーションの機能的言語に対置して文学的美の領域があるとしただけで、積極的のようで消極的な規定である。
それはただ自由の領域を規定しただけにみえる。
そこにおける幻想性の領域において考えるなら、社会、経済、技術的な枠組みは共同の次元の問題であり、個人とは峻別される。
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