2014年5月25日日曜日

理性による社会的制御は不可能か


「理性による社会的制御」というが、「社会」という概念そのものが「理性」と「制御」を含んでいるのである。

そして、 「コミュニケーションのまともな作動」というが、これは何によって成されるのか。理性(ロゴス)によってではないのか。「暴走、全体主義への加担」から、どうやって逃れるのか。それも理性ではないのか。


ここにはポランニーの暗黙知に対する曲解と、ポランニーが厳しく批判するウィトゲンシュタインとの無理やりの結合がある。

これは失敗の研究はできるが成功の研究はできず、さしあたって失敗する行為を「しない」ことがもとめられる。

するとそういう行為をする人間を非難するあるいは攻撃することが目的となり、さして代わりがなくなる。

ここで理性を技術といいかえる。情報化でもいい。技術集約、情報集約による社会制御は可能か、ということになる。

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