経済学者の大半は、未だ安冨歩先生が言ったコムニムスの幻想、理性による社会的制御を信じている。今日、久しぶりに経済学の学会に出て、そう感じた。これでは、暴走、全体主義に加担するだけ。コミュニケーションのまともな作動なんて、全然意識していない。
— 愚に生きる、愚者 (@yasunobu77) 2014, 5月 24
「理性による社会的制御」というが、「社会」という概念そのものが「理性」と「制御」を含んでいるのである。
そして、 「コミュニケーションのまともな作動」というが、これは何によって成されるのか。理性(ロゴス)によってではないのか。「暴走、全体主義への加担」から、どうやって逃れるのか。それも理性ではないのか。
ここにはポランニーの暗黙知に対する曲解と、ポランニーが厳しく批判するウィトゲンシュタインとの無理やりの結合がある。
これは失敗の研究はできるが成功の研究はできず、さしあたって失敗する行為を「しない」ことがもとめられる。
するとそういう行為をする人間を非難するあるいは攻撃することが目的となり、さして代わりがなくなる。
ここで理性を技術といいかえる。情報化でもいい。技術集約、情報集約による社会制御は可能か、ということになる。
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