2014年5月5日月曜日

歴史は言葉なのか事実なのか

 ある人が書いた日本史についての本で、太宰治のことを「高等遊民」という漱石の言葉で、遊んでいて金をもらっていた、という批判的調子で書いてありました。


 太宰が鴎外より低く評価していた、漱石の言葉を太宰にあてはめる文学的無知はともかく、親から金をもらっていたという理由で批判したら、日本の文化など跡形も残りません。時代と場所を変えた倫理を普遍的になんにでも当てはめようとするのはどうかと思います。
 


 親子三代かけてコンクールに出場するバイオリニストなどはどうなってしまうのでしょう。基本的には学者は親の財産を食いつぶしてなるものでした。


 ようするに太宰は猪瀬前知事などが批判を書いていて、心中死したこともあいまって侮りやすいのでしょう。


 しかも漱石の高等遊民という概念の中身も間違って解釈しています。


 遊んでいて気楽な連中、という意味でしょうが、この人は漱石の本を一冊も読んでいないことが断言できます。なにか学習参考書に書いてある用語解説かなにかを持ってきたのではないでしょうか。


 日本近代文学の歴史は場所の消尽、文化資本の蕩尽の歴史として描写できるでしょうが、これは理論的解析の作業であってブログの範囲を超えます。


 この批判を書いた人も場所の取り戻しを無意識には希求しているのでしょうが、敵をつくって攻撃すれば共通の歴史を描けるという稚拙な方法では歴史の再構成はできないでしょう。


 それでは歴史の取り戻しでなく歴史の喪失を意味するだけです。チャラチャラ遊んでいるような文化人を叩け、というのは毛沢東の文化大革命と同じ、強制収容所に気に入らないやつはぶちこめという右も左もおなじような帰結にいたります。

 歴史というものは言葉で書かれていることを忘れています。言葉との関係が問われるのです。

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