2014年5月5日月曜日

少子高齢化は打つ手なし?

貧富の差の拡大と同時に、受容するしかない流れで、何かできると思うのは幻想である、という話ですが、この話は数十年前からずっといわれています。

確かに私も数十年前になんとかせねばあかん、と思わされたのですが、何もしませんでした。できないといったほうが正確ですが、そういう話をしていた大企業につとめる人は「お金ためておかなきゃな」、としかいってませんでした。

 クリントン政権の労働長官だったロバート・ライシュという人のワーク・オブ・ネーションズという本に同じようなことが書かれていたように思います。

 経済政策というのは対立する陣営から批判があって、「何もせぬよりなお悪い」と、無駄な予算を使った無駄な政策である、としてお互いやりあってとまることがなく、折衷的な案に陥って終わったりするのですが、自助努力が政治への働きかけもふくめて語られるなら、なるようになるのだ、ということになります。

「知らないの?世界の終わりなのよ!」 というわけ?ですが、世界が二分されて滅びる、あるいは弱肉強食が貫徹し、人類の平等の理想が潰える、というのは共産党宣言から果てはキリスト教の黙示録にいたるような繰り返すテーマです。

ハルマゲドンであります。

いろいろな言い方がある、人類のみが弱肉強食を意識し、他の生物種に憐れみを感じる、逆に人類のみが生まれた子をすべて育てるという無理な理想をかかげ、寿命を全うしようとするから地球が破壊される、地球を破壊するほどの力は人類にはなく滅びる、地球の癌である人類も地球が生み出した自然に過ぎない、等々...。 ここでいう「地球」を「宇宙」や「自然」に変換することもできる。

これはキリスト経のせいだ!いまこそ仏教が!という葬式仏教の提供のようなお話もありますが、まあ世界の終わりがあるかないかという話で、どっちだっていいじゃないかと思ったりもしますが、ある種の永遠の余地を残しておかないと子孫にバトンを引き継いでいく意味がなくなってしまいます。

相対性理論がキリスト教で量子力学が仏教的といった人もいたがこうした比喩にはほとんど意味がない。意味のない死せる物理の世界に生の意味をもとめても仕方ない。

やっかいな問題になってきたのでここで一たん打ち切ります。中途半端な比喩が幅をきかせては消えていくといった繰り返しに棹差すべきか脅威を感じるべきか。(続く)

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