2014年5月5日月曜日

現代詩と自然の喪失

 宮崎駿が、今の人は土や虫に触れた経験がないから、これまでのようなアニメはつくれない、というような話をしていた。
 


 現代詩についても、自然の喪失があると指摘があったのを思い出した。
 


 自然からの離脱や回帰がテーマにならないと、物語や歴史がつくれないというように解釈した。
 


 そう考えると特撮とアニメの歴史なども思い浮かべたりするわけです。 怪獣は創作物ながら設定は生物ですが、ガンダムなどのロボットはあくまで人造物です。
 
 一応実写では生身の人間がドーラン塗りながらでも出ますが、アニメはあくまで二次元です。
 
 


  とすると現代詩などは一次元ではないかとさえ思われるのですが、あくまで詩の背景にある生活実感として、ゲームがまだ発達してなかったころに外遊びが主流で道路もそんなに整備されてなかった、木造住宅メインの70年代がリミットの感覚だろう。


   キティとかカワイイとかは、女子を中心にした物語づくりをしている。辛うじてそこに自然が残されている「かのように」。ファッション業界もお客の多くは10、20代の女子です。


   現代詩手帳50周年記念では自分たちには歴史がないと泣き出した詩人がいました。中世文学をやっている詩人は7、5調が残っているので現代詩ではないといわれる、といい、子供がいる女性が辛うじて母胎とからめて自然を持ち出しているだけでした。
 
 


  母胎が自然の隠喩になるという問題はもう少しひっぱって考えてみたいと思います。

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