2014年5月8日木曜日

暴力の正当化としての歴史

暴力論は深い問題で、「いじめられてもいじめる側になるな」と子供にいっても、なかなかそうはいかない問題があります。
歴史の中に自分を位置づけたいというのは誘惑です。しかしそのことがより多くの問題を引き起こしました。

歴史はそもそも勝者の視点から書かれるもので、勝てば官軍だったりします。だから支配者の交代の歴史になるのです。

基本的に強いものが弱いものを守るというのが人類の理想だと思いますが、 実際そうなっているようにはみえません。

シモーヌ・ヴェーユのようにおそらくはこの問題に悩んで餓死で自殺してしまった人もいます。

欧米の暴力の正当化の歴史を真似するからおかしな話になるのだ、ということですが、欧米の正当化のやり方を真似することを力説する人が欧米で抑圧を受けた人だったりします。

ニーチェは弱者のねたみからくる道徳、強者への揚げ足取りを批判しましたが、自然=弱肉強食への回帰からニーチェの考えはファシズムの思想へ流入しました。

歴史というのは全人類が考えたことと行動したことの総和だ、といったのはエンゲルスですが、 こうなるとそれぞれ個別の立場の歴史が打ち消しあって消えてしまうようにさえ思います。


歴史をおおざっぱに段階化したのはヘーゲルでした。原始未開のアフリカ的段階、君主を中心に大規模な公共政策をやるアジア的段階、個々人が自立した西欧的段階です。


ヘーゲルはアフリカ的段階を厳密には歴史の外にあるものとみなし、自然と人間がまみれて区別がつかない状態とみなしています。


日本で西欧的改革、近代国家化、市場化をすすめる場合、アジア的停滞から逃れて西欧的自立個人になろうという改革になります。

しかし自然が絶滅した現在、世代間の対立はある種の合理性からの、制度の不合理性や非合理性に対する批判になっています。

結局ある種のクラスタを設定し、共通の敵を作って攻撃するという燃え上がり方ですが、そこでは歴史はあるクラスタ毎の歴史の再構成になります。












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