これはドラッカーの言葉ですが、ルーティーンワークと創造性のような対比でとらえられてきました。私は人間の生活基盤における文化の核がないと最終的にイノベーションはできないと考えていて、故に古事記まで遡って神=魂といっているわけですが、この意味は日本文化が絶滅するまでわからないのではないかとさえ思っています。
ドラッカーは場所の文化資本について語っているのですが、語りきれていません。社会的価値といっているのですが、社会というものは実はありません。個々の層があり、クラスタが分類によって現れるだけで社会一般などというものはないのです。
かのように、語られるのが社会ですが、国家とは何かとおなじで究極的には定義できないのです。国家とは国家であるから国家である。権力は権力だから権力だ。同義反復でしかないのが国家です。
結局はあるクラスタが社会一般の利益を偽装して主張しているだけで、一般的なものは常に部分が全体を主張する際に持ち出されるものです。
ドラッカーのフリードマン批判やフリードマンの自由主義とマネタリズムについては別のところで問題にしたいと思います。
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